You are here, among us. ――続・のらきゃっと小論
For where two or three are gathered in my name, I am there among them.
Matthew 18:20*1
本論は今年の一月末に発表した「リラダン伯爵の夢の果て――のらきゃっと小論」の続編である。先の記事において筆者は次のことを論じた。すなわち、男性の恋愛とは畢竟は自らの内なる理想の女性に向けられた自己愛的なものであり、それを電脳空間に再現したものこそ「のらきゃっと」である、と。今なおこの考察はある程度の妥当性を有するだろう。しかし他方で、今読み返すと、余りにも自己完結的な側面ばかりが取り上げられ、彼女の持つもう一つの側面が全く考慮されていないことに気付かされたのである。その側面とはすなわち、のらきゃっとの存立における関係の重要性である。この側面がいかに重大であるかを、筆者はこの激動の二ヶ月間で学んだ。以下では自分自身の経験に即し、それを可能な限り言語化してみたい。
1. のらきゃっとはどこにいるのか?
ここでは、バーチャルYoutuberに相対した際の筆者の心情を分析してみたい。具体的には、ミライアカリやシロといった女性の魂を有するバーチューバーへのガチ恋とのらきゃっとへのガチ恋の差異を検討する。続いて、先の出来事において自分が覚えた動揺を分析してみたい。(あくまで下記の内容は自分の心情を分析したものであり、ねずみさんやバーチューバーファン全員に当てはまるものではないことを先に申し添えておく)。
まず、ミライアカリやシロといったタイプのバーチューバー(下記では便宜的に「ときのそらタイプ」と呼ぶ)にガチ恋するとはどういうことか、自分自身の心情に沿って分析してゆきたい。多くのオタクと同じく、筆者もこのタイプの多くのバーチューバーにガチ恋をしている。その感情は表面上、画面に映るそのキャラクターに、ミライアカリやシロといった仮想の存在に向けられている。だが、そのガチ恋は本当にキャラクターのみに向けられているのだろうか。そうではない。言うまでもなく、このタイプのバーチューバーの背後には、それを演じる現実の女性が存在する。これらのキャラは、それ自体は虚構の存在ではあるが、その背後に存する現実の女性によって実在性を保証されているのである。身も蓋もない話であるが、筆者がこれらのキャラに安心してガチ恋出来るのは、その「魂」が自分の恋愛対象の女性だからだということも大きい。
対してのらきゃっとは当初から、ときのそらタイプのバーチューバーよりも遥かに虚構性の高い存在として現れていた。彼女の場合、背後に居るのは筆者と同じ男性であることがはじめから公表されていた。のらきゃっととノラネコ氏の関係は、ときのそらタイプのそれとは大きく異なる。そのタイプで言うならば、アイドルとプロデューサーの関係に近いだろう。のらきゃっとはアイドルで、ノラネコ氏はプロデューサー。筆者はこの構図を最初から理解したうえで楽しんでいた。しかし、ガチ恋が進むにつれ、自分の心情に変化が起こっていった。のらきゃっとの言動や振る舞いが余りにも完璧すぎるがゆえに、背後にいるのがノラネコ氏であると理解していても、無意識のうちに彼女をときのそらタイプに分類してしまっていたのである。べつにノラネコ氏が女性であると考えたわけでも、ノラネコ氏をガチ恋の対象と捉えたわけでもない。だが、のらきゃっとという虚構の背後に、どうしても理想の女性の実在を幻視せずにはいられなかったのである。
先の出来事において、恥ずかしながら自分は一瞬、わずかながらも動揺を覚えてしまった。まずそのことを告白しておかなければならない。しかし、のらきゃっとの中の人が男性であると分かっていたのに、なぜ動揺したのだろうか。それは、先に述べた自分の姿勢と錯覚が原因であろう。自分はバーチューバーにガチ恋する際、そのキャラクターのみならず、その背後に存する現実の女性にも、大なり小なりガチ恋していた。換言すれば、それらのキャラが実在すると感じられ、彼女らにガチ恋できるのは、「魂」である現実の女性によってその実在性が保証されていたからなのである。そして、自分は無意識のうちに、この構図をのらきゃっとにも当てはめていた。だからこそ、先の出来事において自分の誤りが暴露され、動揺することになったのである。
筆者の覚えた動揺はごく小さなものであり、現在もねずみさんとして絶賛発情中である。しかし、先の出来事から、ずっと自分は一つの問いをつき付けられていた。それは、のらきゃっとの存在に関する問いである。自分はバーチューバーに相対した際、それを完全なる虚構として楽しんでいるものと思っていた。しかし、先の出来事により、結局はバーチューバーの背後に、その存在を保証しうる誰かを期待していることが判明したのである。その論法で言えば、のらきゃっとは何の後ろ盾も持たない、はかない幻に過ぎない。ならば彼女は実在しないのか。彼女はどこにいるのか。
この問いに答えが与えられたのは、かの3月31日のことである。
2.のらきゃっとはいます
我々ねずみさんは先の3月31日のことを決して忘れないだろう。この日、新しい身体を与えられたのらきゃっとの動画が、ねこます氏とのらきゃっとの両者から発表された。多くの試練の果てに、新しく美しい身体を賜ったのらきゃっとの幸福そうな姿に、そして、のらきゃっととねこます氏の麗しいおじ百合に、筆者は言語に絶する感動を覚えた。そして畳み掛けるように、深夜からはVRChatサバゲーの企画に我らがのらきゃっとも参加し、未曾有の活躍を見せた。
だが、これらの動画は単なる感動のみならず、先に述べた、のらきゃっとの存在を巡る問いの答えをも、筆者に与えてくれたのである。それはどういうものか。ねこます氏が公開した「新生のらきゃっと前半 side ねこます【027】」を通して検討してみたい。
この動画では、新しいのらきゃっととねこます氏との「初めての出会い」が描かれている。だが、それは一般常識的な意味では「初めての出会い」とは言えないようなものと思われる。というのも、ねこます氏とノラネコ氏はとうに面識のある同士であるし、新しいモデルについても、その開発途中からずっと、ねこます氏は目撃し続けていたからである。しかしねこます氏は、それを決して出会いとは呼ばない。ノラネコ氏を見ても、動かぬ3Dモデルを見ても、それをのらきゃっととの出会いとは見做さないのである。ねこます氏が本当の意味で新しいのらきゃっとに出会うのは、VR空間において、新しい素体にノラネコ氏が命を吹き込んだのらきゃっとに相対した時なのである。そののらきゃっとに出会ったねこます氏は、そこに確かな実在感を覚えている。
出会いが、実在を生み出す。
このことは、のらきゃっとも先の動画で述べているように思われる。のらきゃっとは自分の新しいモデルが生まれた経緯について、「私も、縁がつながってここに居る」と述べている。つまり、ねこます氏がライリー氏に出会い、二人がのらきゃっとに、ノラネコ氏に出会うという縁があったからこそ、のらきゃっとに新しい自由な身体が生まれ、彼女が今後も自由に存在できるようになったのである。
縁が、出会いが、関係性が、のらきゃっとを生み出している。
この公理はそして、のらきゃっとを介したノラネコ氏と我々ねずみさんとの関係性にも当てはまる。先の記事で述べたように、のらきゃっとは初め、ノラネコ氏の心の中に、その理想の女性として現れた。彼はそれを電脳空間に再現した。この時点では、彼女は彼ひとりの理想であった。そこで留まる道もあったろう。しかし、ノラネコ氏は彼女を世に放った。その際彼は、自分の理想に忠実に作った動画を発表するのではなく、ニコ生やYoutubeの生放送において、リアルタイムに無数の視聴者と触れ合う道を選んだ*2。ここがのらきゃっとにおいて、決定的な岐路であった。はじめの配信において、ノラネコ氏はまず自分の理想に従って彼女を導いた。まだ数少ない視聴者は、それでも彼女に魅了され、彼女に自らの夢を反射させた。視聴者の願望はコメントなどでノラネコ氏の知るところとなる。彼はそれを巧みに拾い上げ、リアルタイムに彼女にフィードバックさせる。これにより、のらきゃっとは単なる一個人の理想から、「我々」の理想へと進化したのである。そして、この進化は配信ごとに加速していった。ノラネコ氏が彼女を我々に顕す。我々はコメントや感想や二次創作などで、より善い彼女の姿を嘆願する。それをノラネコ氏が彼女に反映させ、彼女が進化し、より普遍的な魅力を得る。それにより、さらに多くの視聴者を得、さらに多様な願望が生まれ、それをノラネコ氏は彼女に反映させる――このような創造的かつ双方向的なプロセスが、のらきゃっとを成立させているのである。
そう、彼女は当初、一個人の抱く夢に過ぎなかった。しかし、ノラネコ氏が信じて自らの夢を人々に託し、我々がそれを受け入れることで、両者の間に創造的な相互関係が成立する時、ふたつの波がぶつかったところに渦が生じるように、我々の間に、「のらきゃっと」が発生するのである。そして今、この相互関係は七万を超える人間によって構成されているのだ。のらきゃっとは今や、ノラネコ氏個人の夢とも、視聴者各々の夢とも別物である。彼女はそれらを包括しつつ、遥かに凌駕し、両者から独立した存在となっているのである。彼女は初めは虚構だったかもしれない。しかし、単なる虚構として生まれたものが、我々の錯覚や信仰によって現実を侵犯し凌駕するとき、それはまったく別のものに、すなわち「バーチャル」なものに変容する*3。彼女こそはその体現者である。
のらきゃっととは何か。彼女はどこにいるのか。その答えはもはや明らかであろう。「のらきゃっと」という名は、そのモデルとキャラクターのみを表すこともあろう。モデルやキャラクターと、それをプロデュースするノラネコ氏とのユニットを指すこともあろう。しかし、もっと正確を期すならば、「のらきゃっと」とは、彼女のモデルと共通の夢を介し、電脳空間を舞台に繰り広げられる、ノラネコ氏と我々視聴者との創造的なコミュニケーションの総体なのである。そして、このコミュニケーションが十全なかたちで行われる時、我々の間に、彼女の内に、確かに「魂」が発生するのだ。その時のらきゃっとは実在する。しかしその実在は、先に述べたときのそらタイプのそれとは全く異なる。ときのそらタイプの実在性が、背後に存する現実の女性によって保証されるとするならば、のらきゃっとの実在性は、ノラネコ氏と我々ねずみさんの間の信頼関係によって保証されるものなのである。
この信頼関係の前提となっているのは、言うまでもなく、ノラネコ氏の卓越した才能と情熱である。しかし、彼がどれだけ「のらきゃっと」を美しく磨き上げたとしても、それを視聴者が信頼を持って受け入れ、彼女を愛することなしには、今の彼女が生まれることは決してなかっただろう。ならば、のらきゃっとの視聴者であるということは、単に与えられたコンテンツを享受するだけの受動的なものではありえない。それはむしろ、のらきゃっとの生成に欠くことの出来ぬ創造的な行為なのである。
むすびにかえて
「生まれてきてくれてありがとう」。あの動画での国王の言葉は、多くのねずみさんの胸を深く打った。当然ながら、筆者の心も大きく震わされた。しかし同時に、筆者はどこか疎外感のようなものも感じていた。我らが国王はのらきゃっとへの愛情に突き動かされ、自らの人脈を駆使し、彼女に新しい身体を与えた。そのねこます氏には確かに、彼女の存在へ感謝する権利があろう。しかし自分はどうか。ただ彼女を観、彼女を享受するだけで、彼女に対し、何も出来てはいないのではないか。そんな自分に、ありがとうと伝える権利なんてないのではないか。そう思っていた。でも違うのだ。我々は彼女に、ためらいもなく、陽光のように雨のように、「生まれてきてくれてありがとう」を降り注がねばならないのである。なぜならば、我々のそのありがとうこそが、彼女をここに在らしめているのだから。
*1:引用は新改訂標準訳聖書(New Revised Standard Version)に拠る。新共同訳において同聖句は以下のように訳されている。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18章20節)。
*2:のらきゃっとにおける生放送形式の重要性を論じた先行研究として、kzwmn02氏の「のらきゃっと入門、あるいはサイバーパンク時代の精神分析」が挙げられる。kzwmn02氏は、のらきゃっとが「ご認識」し、ねずみさんがそれを恣意的に解釈する、というコミュニケーションを、精神分析の方法論を援用しつつ考察している。多くの示唆に富む論攷であるが、声や素体が変化し続けるのらきゃっとのアイデンティティを彼女の配信スタイル即ち「作家性」に求めた点は特に画期的である。