ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

【ネタバレ】『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の感想(15904字)

ネタバレ注意

●シン・エヴァ観てきたのでとにかく思いついたことを全部書いていく。いやー凄かった。良かった。不満も大量に大量にあるけれど、面白かった。観れてよかったよ。
●本当は一昨日のレイトで観る予定で、チケットもすでにネットで買ってたんだけど、労働のせいでパーになってしまった。弊社は今すぐチケット代を弁償しろ。◯ね。◯ね。
●ということで昨日の15時からのチケットでリベンジ。本当は昨日も疲れてて、もう観るの来週でいいかなとも思ってたんだけど、敬愛するペンクロフ先生が昨日シン・エヴァの感想記事をアップされたので*1、これはもう宿命だと思って観てきました。観ないで読むわけにはいかんからね。いやー良かったよ。ありがとうペンクロフ先生。
●観に行った映画館は県下でも有数のシネコンで、3月8日以来、朝から晩までエラい数のスクリーンがシン・エヴァを上映し続けている。扉を開けるとそれはもうバカでかいシン・エヴァの横断幕がこれみよがしに掲げられていた。エヴァ以外の映画を観に来た連中はギョッとしただろうなこれ。ただ、公開から少し経ってるとはいえ、俺の観たスクリーンは満員ではなく、俺の両隣には誰も座らなかった。一観客としては映画に集中してていいんだけど、もうギュウギュウ詰めの客席を覚悟してたので少し拍子抜けした。まあ、ガチの連中はみんなIMAXに突撃してたんだろうな、きっと。
●少し離れた横の四人組が予告とか映画泥棒の間中ずーーーっとくっちゃべってたんで、本編もこの調子だったらウンコ歯磨きの刑に処そうかと考えていたのだが、エヴァが始まった途端ピタッと黙ってくれたのでありがたかった。上映中は私語もなく映画に集中できてよかった。


●本編を思い出せる限り。記憶違いとか時系列が変なとことか多々あるでしょうが勘弁してけさい。

 

 

 

●予告が終わって、映画泥棒が終わって、真希波マリのかすかな歌声とともに東宝東映、カラー、映倫が画面に出てきたときのあの緊張感。とうとう終わりが始まるのねという実感とともに、劇場全体に緊張が走り全員が息を呑んだ。あの瞬間のなんとも言えない、なんつーか、不安と高揚感がないまぜになったようなあの感情は、初見でしか得られないものだ。あの感情はしばらく大切に覚えておきたい。
●冒頭の舞台はパリ。パリってあれよね、ナディアのクライマックスの舞台でもあったよね。庵野は新劇でエヴァだけでなく、過去の自分のすべての作品をすべて引っくるめて再演しようとしてるんだろうね。
●ピチピチスーツのリツコさん。スタイルいいっすね。
●マヤと若い男たちがなんかイロウル戦みてえなことしてるんだけど、ここの緊張感は「使徒、侵入」に遠く及ばない。及ばないけど、でもやっぱりエヴァエヴァで、うわー俺本当にシン・エヴァを観ているのかという感慨が湧いてくる。
サキエルモドキとマリ戦。アクションすごいっちゃすごいけど、正直画面がうるさすぎて何が起こってるのかよくわからないのと、サキエルモドキがただ飛んでるだけでどういう攻撃をしてるのかさっぱりわかんなかった。
●そのあと出てきた歩く砲台くんと歩く発電機ちゃんたちは非常におぞましくて素晴らしい造形だった。奇矯で尖ったフェチズムを感じましたよ。あとエッフェル塔つよい。N2爆弾よりエッフェル塔の方が強いんじゃないか。ていうか、庵野エッフェル塔に対するこの愛着はなんなんだろうか。
●「ワンコくん」→タイトルロゴ→シンジ・アスカ・綾波(のそっくりさん)の流れ、いかにも庵野らしいカッティングで最高。
●終末世界をとぼとぼ歩くチルドレン。お前らどこに向かっとるんじゃ、この終末世界に行き場なんてないんと違うかなどとハラハラしてたら、何か自動車が出てきて馴染みの声が。はぇ?
●トウジやんけ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
●委員長やんけ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
●ケンスケやんけ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
●人間生き残っとるやんけ!!!!!!!!!!!!!!!!!!
●いやー、破とかQの何とかインパクトでヴィレとネルフの連中以外みんな死んじゃったのかと思ったら、普通に結構生き残ってて笑っちゃった。Qとかさあ、完全に人類が滅亡したノリだったじゃん。びっくりしたよおじさんよ。
●シンジのかつてのクラスメートが立派に成長して真っ当な大人になってるの、すごく陳腐な展開ではあるんだけど、でもそれを庵野印の純正なエヴァでやられると、やっぱとてつもなく感動してしまう。トウジは足を失っておらず、ましてや漫画版のように死んでもおらず、委員長との間に子供までこさえてさ。バルディエル戦のあと、ああ、こうだったらどれだけ良かったろうにという俺の妄想がそのまま本編としてスクリーンに映し出されていて、これはずるいと思いながらもやっぱり泣いてしまったよ。ずりいよなあ。
●委員長の親父さんがシンジの態度がなっとらんと怒るんだけど(実際まったくなっとらんので当然である)、今までエヴァでこんな真っ当に怒る大人なんかいなかった気がする。大人になったな、庵野
●ファーストケンケンインパクト。
●なんかケンスケの家でアスカが全裸でうろついてて、それを見たシンジくんがちっともチンピクしないんでアスカが憤慨するんだけど、そこでケンスケが出てきてさ、裸のアスカに平然とタオルをかけてシンジをフォローするんだよな。そしてアスカがケンスケのことをものすごく親しげにケンケンと呼ぶ。はぇ? ほ、あ、は?
●そしてまーケンケンがさ、いい男なんだわ。大人トウジもなかなかに魅力的なんだけど、ケンケンは輪をかけて良かった。なんつーか、限界独身中年としては、こうなりたいという理想像みたいな感じ。大人としての達観と余裕と、それでも他者を当たり前に深く思いやることのできるハートと、そしてそこはかとない色気。明らかに加持の魂を継ぐ者となっていた。正直言うとケンケンいいわ。最高だわ。推したい。
●ウジウジするシンジにレーションを無理やり食わすアスカ、EOEの量産機戦にも匹敵する神作画だったんだけど、結局、シン・エヴァのアクションシーン(?)で一番凄かったのはここで、結局ここよりも躍動感ある場面は最後までなかったよ。
●シンジがお家芸を披露してアスカにキレ散らかされる一方、綾波のそっくりさんは村の女性達との交流を通じ心を獲得してゆく。ここはまあ、無機質な人外美少女が、人の暖かさとか自然の美しさとか、働くことの尊さとか芸術の深遠さを通してヒューマニティーを紡いでいくという感動的な場面なんだけどさ、ちょっと俺は乗り切れなかった。なんちゅーか、綾波ってこんな女だったっけ? 破のポカポカとかは、まあ、自己模倣とその破壊の一環としてある程度納得できるものだったけど、このそっくりさんの幼女っぷりは流石に度が過ぎてやいないか? 旧劇の綾波レイの最大の魅力はあのヒトならざる超越的な神秘性にあった。彼女は確かに世間一般の常識には疎かったかもしれないけど、決して無知なキャラじゃなかったし、そういう常識から超越しているところにその神秘性の根拠があったように思う。新劇で彼女がその人間的常識からの逸脱や神秘性に背を向けて、こちらの方に歩み寄るようシフトしたのは悪くないけど、でもそれにしたってやりようがあったんじゃないかね。ここでの綾波は、それこそEOE後に大量生産された出来の悪いLRS小説みたいに無知で無垢で、それゆえにこちらの庇護欲をそそるような存在と成り果てている。それはまあ二次創作としては全然悪くなくて、むしろ本編では超越してて全然釣れない存在がこっちに懐いてくれたら最高だよなあという願望を満たしてくれるのだが、本編でそれを無反省的に繰り出されると萎えてしまうんだよ。二次創作の幼女綾波は本編の超越者との対比があるからこそ映えるのであって、対立項がなくなるとただの凡庸なキャラになっちまうんだよな。ああ長くなっちまった。
●アスカ、お前は痴女か? 痴女なのか?
●アスカとそっくりさんにお前は働かないのとアオリ散らされるシンジ。庵野の実体験が作劇に活かされてますね。
●マジか加持さん死んでたんか。どっかで対ネルフの諜報活動でもしてんのかと思ったけど、インパクトを止めるために自己犠牲をしてたとな。うーん。なんつーか、最後まで見た感想として、加持さん殺す必要あったか? という疑問は拭えない。加持さんが死んだことでヴィレとかミサトのドラマに深みは加わったかもしれんけど、加持さんが生きてたって同じくらい感動できる内容を作れたと思うんだよな。新劇はさ、Qでの発狂は別として、EOEの時に俺たちが観たかったものを再現するっていう方針を基本的に貫いてるっぽいんだけど、だったらご都合主義でもいいから加持さんは生きててほしかったな~。
●ケンケン・アスカ・シンジで、ケンスケの父の墓参りに。そこでシンジに対し、親父さんと向き合ってちゃんと話せ、俺にはもうそれは出来ないんだと諭すケンケン。この映画での碇親子の結末を観るに、このケンケンのアドバイスが世界を救ったんだろう。いい男だわ。俺でも惚れるわ。
●アスカとケンケンの、決してあからさまには語られないドラマがすごく効果的に紡がれてるのとは対象的に、村でのシンジとそっくりさんの交流は正直雑だった。
●廃墟でシンジがひとり自罰するところに、そっくりさんはそらーもう献身的に通ってS-DATを返そうとしたり、レーションを置いてったり、そらーもう献身的に尽くしてくれる。いやーこんなふうに尽くされてえよなあマジでなあ庵野なあ分かるよ尽くされてえよなあ。そらまあ絆されて前向きになったりもするわな。
●ただ、シンジの更生に関しそっくりさんに勝るとも劣らない寄与をしたのはケンケンだろう。彼はシンジを村のあちこちに連れてゆく。世界は決して滅んでなんかない。狭く、脆いかもしれないけど、まだ美しい自然と人々の営みは続いている。それを維持するためには多大な努力が必要だ。でも、それは別にインパクト以前でも同じだったのではないか? ちょい誇張されてるかもしれないけど、でも、ケンケンはそういうことをシンジに伝えようと懸命だった。そして、このメッセージはシンジには効いただろうな。それからケンケンはシンジに釣りをさせる。彼に役目を与える。そして、うまくいかなくても決して叱らず、絶妙にフォローする。ケンケンは大人だ。ネルフに一人もいなかった(加持は別か? でもあいつはダブルスパイだしな)本物の大人だ。シンジは、ここで初めて本物の大人に見守られつつ、少しずつ成長していったのだろう。ちとその成長がはやい気もしたが、まあ尺が足りないので仕方ない。少なくともここは説得力があった。ケンケン抱いてくれ。
●そっくりさん改め綾波死亡。散々フラグ立ててたんで驚きはなかったけど、ここの演出は良かったな。プラグスーツがどんどん白くなってって、最後にバシャって、ほんであの十字架が小さくスーツの上に浮かんで、それがほうっと消えてゆく。ここのシークエンスの儚さは心打たれた。
●ただまあその後なんだけどさ、シンジが綾波の死を受けて、それでも絶望せず、しっかりと前を向いて戦いに赴くんだけど、ここはシンジの内面の変遷がうまく描けてないように思えた。あくまで俺の印象なんだけど、シンジの再起は綾波とケンケンのフォローによるもので、その中でもまあ前者の寄与が大きいだろう。ほんで、それ以外の人間、特に村の人間との交流は描かれてなかったと思うんだよな。アスカは徹頭徹尾(シンジからしたら)冷たいだけだしね。だから、シンジが前向きになり始めた時点では、彼の心の拠り所の大半は綾波で、ケンケンがそこに少なからぬフォローを加えて、って感じだったと思うのよ。そんなときに綾波があんな感じで死んじまってさ、それでもシンジがあんな毅然と立ってられるかなあという疑問が拭えないのよ。それこそシンジが、綾波みたくもっと村の人間と交流し、自分もアスカみたいにここの人たちを守らなければという自覚を持つシーンがあったら良かったんだろうけど、そういうの全然なかったしね。立ち直ったところでいきなりはしごを片方外されて、でもそれでも立っていられる根拠が俺にはわからなかった。でもいいよ。いつまでもうじうじされてても話し進まないしね。しゃーない。
●またまたインパクトを起こそうと画策するネルフに対しカチコミを仕掛けるヴィレ。俺はこれが観たかったんだよ! EOEでは戦自とゼーレの襲撃を受けて、ほぼ一方的に蹂躙され虐殺されてった連中が、ここでは自らすべてを終わらせる戦いへと赴いてゆく。ここの反転はまあベタだけど、ベタだけど俺が本当に観たかったもので、すごく嬉しかった。
●ただ、肝心のそのヴィレVSネルフ戦の描写は本当にお粗末だった。戦闘シーンがごちゃごちゃしてて視点もグリグリしててよく分からんってのも大きい。でも、それ以上の瑕疵がある。あのさ、ヴィレが宇宙から南極に向けて突入してくシーンとかさ、よう分からんパーティクルが大量にぶわーっとうねるシーンとかさ、ビットレートが足りてないのかエンコがうまくいってないのか分からんけど、画面が明らかにカクついてたよね。納期の問題なのか予算の問題なのかリソースの問題なのか分からんが、ああ、庵野妥協したなと思ってしまった。これを劇場版の完結編で出してくるか、と。
●この映画、ストーリーとかは面白かったんだけどさ、結局旧劇とか、新劇でも破までにあったエヴァの戦闘シーンの快楽ってのが完全に失われてて、その点では不満だよ。その失敗にはいろんな原因があるんだろう。そもそもエヴァというものに対して関心を失ってるのもあるだろうし、新しいことを試してみて結果うまくいってないってのもあるだろう。でも、それに加えて、先に指摘したみたいな妥協が、特に戦闘シーンではちょいちょい見られて、その影響も大きだろうなと思った。ただ、もう庵野エヴァを作ることでこれ以上粘れねえのかなとも思った。そしてそれでいいと思った。とにかくもう、とにかくこれでさっさと終わらせることを優先したんだろうし、それで良かったのかもしれん。寂しいし残念だけどね。
●ゲンドウと対峙するミサトとリツコ。
●リツコがゲンドウを撃った!!!!! 撃った!!!!!! やった!!!! よくやった!!!!!!!!!!! ◯せ!!!!!!!! ◯したれ!!!!
●飛び散った脳みそをちょいちょいとかき集めるゲンドウの手のところ、EOE味のあるおぞましさで良かったね。
サイクロップス先輩と化したゲンドウ、厨二病バイザーの下ってそんな面白いことになってたの? 笑っちゃったよ。
●なんか、ミサトのおとっつぁんが人類補完計画の提唱者になってて、ここは面白い改変だなと思った。旧劇だとアレだよね、南極でアダムをまずい感じで覚醒させてセカンドインパクトを起こした学者がミサトのおとっつぁんだったけど、今回はもうそれ以上の、すべての元凶と化しているのね。そして、ミサトがここまでストイックに戦い続けるのも、自分の父の呪縛から逃れ、それにケリとつけるため、と。面白い。面白いけど、うん、まあ、あとは後述するとして。
●ゲンドウがリツコに撃たれたあと、その子のシンジがまた女どもに銃を向けられるのオモロが過ぎるだろ。どういう宿命の親子なんだよお前ら。
●またまた完結編で撃たれるミサトさん。ただ、ここのドラマはなんちゅーか、できの悪い金八先生みたいで薄ら寒かったなあ。
ミサトさんとシンジがほんで和解して、シンジがマリに連れられて父との戦いに赴くんだけど、この二人のドラマってもっともっと、もっと時間とリソースを割いて徹底的に描く必要があったと思うんだけど、そらーもうさらっとしてて、心底拍子抜けしてしまった。EOEの「そんなんどうだっていいのよ!」から大人のキスにかけての、全身全霊の、魂と魂の衝突に近いあの交流と比べると、本当に、ただ表面的な言葉を交わしただけに等しい。新劇のシンジとミサトさんって、旧劇に勝るとも劣らない深い因縁で結ばれていて、しかもQでは旧劇以上に深い断絶が二人の間に生まれて。その二人が和解して、ほんでミサトがシンジを送り出すってんだからさ、もっとこうさ、もっと出来たんじゃねえのかな。
●先にも述べたけど、新劇においてミサトの父は人類補完計画の理論を完成させた人物というふうに改変されていた。これは、シンジとの関係性において決定的な修正だ。人類補完計画の提唱者とその娘たるミサト。人類補完計画の実行者たるゲンドウと、その息子たるシンジ。ミサトもシンジも、自分の父親のせいで人類が滅亡しかかっているという、特異な境遇を共有しているのだ。彼女と彼が背負った呪縛は、たぶんお互いにしか理解できない。新劇におけるこの二人は、精神的・境遇的に双子と言っても過言ではないのだ。でも、結局この改変と、それによって生じた二人の変化を、シン・エヴァは全然うまく扱えてなかった。この変化を基礎に、二人の関係性を掘り下げれたらもっと面白くなった気もするのだが、ミサトは結局、裏方的な役割から逸脱することなく、ああいう結末を迎えた。俺はそこには納得がいってない。
量子テレポーテーションを繰り返すゲンドウくん面白かったね。
●なんかシンジくんが通り抜けフープみたいなので綾波のいる初号機のエントリープラグに侵入してあれやこれやするんだけど、もうここからは深いこと考えちゃだめだな、設定とか展開じゃなくて庵野の魂を感じるんだモードに俺は移行しました。
●シンジ対ゲンドウ開幕。キングコング対ゴジラ以来のビッグタイトルですよこれは!!!!!!!!!
第3新東京市のビルにカヲルくんみたいな座り方してシンジを迎えるゲンドウ面白すぎる。
●この第3新東京市でのシンジ対ゲンドウ、ニコニコのMMD動画みたいなウンコクオリティで驚愕したのだが、即座に楽屋落ちになったので納得。ハイハイ。なるほどね。ただ、ここもわざとクオリティを低くしたというよりは、リソース的にもう凄まじい戦闘シーンは描けないんだけど、なんかうまいこと出来ねえかなという苦肉の策のようにも思えた。シン・エヴァ作るのしんどかったろうね。ご苦労さん。
●そのあとのミサトの部屋でのタイマンは一周回って最高だった。庵野はもう無敵だ。好きにしたんだな。
●ほんで、シュールなぶつかり稽古を繰り返した後、シンジが、シンジが、シンジがゲンドウに対話を持ちかける。シンジが、ゲンドウに、ゲンドウに、話をしようと持ちかける。そして、ゲンドウがそれを受け入れる。ゲンドウが、シンジと、話をする。二人は電車に乗る。あの電車に乗る。ゲンドウが話し始める。ゲンドウが、シンジに、すべてを話し始める。
●TV版のころからずっと言われてきた。この話、シンジとゲンドウが腹を割って話したらそれですべてが終わるよね、と。みんなそれが分かっていた。庵野もそれを分かっていただろう。でも、それがなされぬまま、あれから26年の歳月が過ぎた。その間、貞本版のエヴァがその点をだいぶ保管してくれたが、しかし、この親子の間の断絶は、それでも26年の間ずっと架橋されないままでいた。それが、とうとう、とうとうだよ。
●本当にエヴァが終わるんだなあと思った。
●それにしてもゲンドウ、いくらなんでも腹を割りすぎじゃねえか? 『日本のいちばん長い日』の三船敏郎にも匹敵する見事なハラキリぶりでしたよ。あんまりにもあからさまに自分の来歴と心情を吐露するので、正直引いてしまった。話す内容は、ぶっちゃけある程度エヴァリテラシーがある人間ならとっくの昔から知ってたことだ。昔から孤独だった。知識と音楽だけが救いだった。そんな中、愛するヒトに、ユイに出会った。それで自分は救われた。でも、ユイを失って自分は壊れてしまった。またユイに会いたい。だから補完計画を利用した。すべて、この二十数年間にエヴァオタたちが考察した、まさにそのとおりの内容だ。でも、なんというか、それを本当に正直にあけすけに吐露していくんで、なんちゅーか凄まじい迫力があった。エヴァを完結させるんだったら、ゲンドウの内面にも踏み込む必要があるだろうとは思っていたが、まさかゲンドウ版の「終わる世界」がお出しされるとは思わなかった。
●ここの有無を言わさぬ異様な迫力は、たぶん、庵野の感情移入の先がシンジからゲンドウにシフトしたことを示しているのかもしれない。旧劇を制作してた頃、庵野が恋愛でうまくいってなかったってのは、まあ有名な話だ。ホントかどうかは知らんけど、たぶんホントじゃないかと思う。彼は自分の愛が相手に受け入れられず、強い憤りと孤独感を感じていたのだろう。だからこそ、シンジの孤独の描写には神がかり的な説得力が生まれた。その一方、当時の庵野としては、愛する人を失い、それを取り戻すために世界を犠牲にするゲンドウは、頭では理解は出来ても、遠い存在のように思えただろう。だから旧劇では、ゲンドウは最後まで把握不可能な他者として君臨し、そのまま死んでいった。しかし、今の庵野は違う。彼は素晴らしいパートナーを手に入れた。いい嫁さんもらって幸せですと、彼はそう衒いもなく笑っている。本当に幸せなんだろう。だからこそ、それを失うことへの恐怖も、きっと彼の中にあるのだろう。ここで奇しくも、彼はゲンドウとシンクロする。かつて単なる作劇上の設定として生み出した因子が、極めて強力な媒体となって、彼とゲンドウを結びつける。シンクロ率は無限大だ。あそこでのゲンドウの吐露は、もう完全に庵野の独白だ。EOEですら、ここまで高いシンクロ率は見られなかったのではないかと思う。TV版から現在に至るまでの、26年という歳月を思う。
●なんかよくわからんけど槍がもう一本必要で、ヴンダーならそれを作れるらしい。リツコを始めとしたヴィレクルーの懸命な努力により、見事世界を救う槍が完成する。ここらへんのシーケンスはシンゴジとか、それに影響を与えたであろう『妖星ゴラス』あたりの本多猪四郎作品味があって燃えました。燃えましたとも。
●ただ、その槍をシンジに届けるためにミサトが自己犠牲する展開はノレなかった。なんちゅーか、ゴジラKOMでセリザワ博士がゴジラと核心中(心中ではない)したのと同じ薄ら寒さを感じた。EOEではミサトの死は、物語の展開として必然的な結末で、だからこそ俺は悲嘆に噎びはすれどそれに納得はした。でも、ここでのミサトの死に必然性は感じなかった。確かに、彼女の死は感動的だ。でも、彼女を生かしても同じくらい感動させられただろう。ならば、ここでは彼女には生きてほしかった。それは確かにご都合主義だ。でも、そのご都合主義をあえてやってやろうってのがこの映画のコンセプトじゃねえのか?
●まあ、ミサトが死をもって償わねばという感情を抱いたのは、展開的に分からんでもない。あの死は、「行きなさいシンジくん! あなた自身の願いのために!」という発言に対する、自分なりのケジメだったのかもしれない。でも、この映画の前半部の、人間の生への讃歌からして、死んで償うというよりは、それでも生きて償ってゆくという方が、テーマに沿った展開じゃあなかったんかね。
●新劇はさ、程度の差はあれど大体のラインでは、旧劇で無残な結末を迎えた登場人物たちへの救済を敢行してるんだけど、ミサトだけそこからあぶれてしまった気もする。人類補完計画の提唱者の娘という、旧劇以上の十字架を負わされたのもそうだ。それに、Qがあんなかたちで本来のプランから逸脱した際、いちばん割りを食ったのはミサトだろう。あんな感じでけしかけたくせに、手のひら返してエヴァに乗るなってどういうことやねんと。そのことでミサトを責めるのはお門違いだ。責任はすべて庵野にある。今回、庵野はその責任から逃れず、何とか最善の形で辻褄を合わせようと努力した。その結果があの、人類を救う自己犠牲だ。ミサトのドラマとして、まあ辛うじて納得のできる筋が一本通っているのは確かだ。でも、こんな歪な筋よりも、もっとすっきりとした筋を通して、彼女を生かすことも庵野には可能だったはずだ。でも、そこまでの気力がもう彼にはなかったのではないか。俺には、ミサトのあの「安易な」死が、戦闘シーンのカクカクと同じく、庵野のエネルギー切れによる妥協の産物にしか思えないのだ。俺はさ、もう一度、海の青くなった世界で、うまそうにビールを飲み干すミサトさんがみたかったよ。
●内心、シンジを恐れていたゲンドウ。だからこそ彼はシンジを遠ざけていた。ガラスのように繊細だね、特に君の心は。そんな彼が、一歩踏み出し、幼いシンジを抱きしめる。そして、シンジの内に、というよりも、シンジと彼との絆の内に、彼はユイの存在を見出す。人類を供物に捧げずとも、たったこれだけのことで、彼の悲願は叶ってしまった。そして彼は電車を降りる。この舞台からはけてゆく。これもまた、二次創作小説とかで散々見た展開だ。でも、二人の和解と、ゲンドウの救済を描くには、もうこれ以上は無理だろう。ここで庵野は陳腐さから逃げず、愚直に結末を描いた。その英断を讃えたい。父にさよなら。
●続いてアスカによる「終わる世界」の再演。彼女もまた綾波と同じく作られた子供だったってのは驚いたけど、それ以上にさ、ほんとにさ、あの人形の中からケンケンが出てきたときの驚愕よ。セカンドケンケンインパクト。2nd RINGとかさ、アスカとケンスケがくっつく二次創作はけっこう見たけど、まさかそれを本編でやるとは思わんやん。たまげたなあ。でも、この映画のケンケンはたぶん登場人物の中で一番いい男なので納得はできる。
●カヲルのシークエンスは俺の理解を超えてたのであまり語ることは出来ない。ただ、あの沢山の棺や、ループを示唆する数々のセリフは、新劇がループものであることを示すと言うよりも、むしろ、エヴァンゲリオンというコンテンツが今に至るまで、漫画だのゲームだのCDだの、同人誌だの同人小説だのといったかたちで、無限に反復され再生産されていたことを意味していたのだろう。そして、その全てに今ケリがつくと。庵野は本気だ。
●そしてレイ。通り抜けフープの場面ですでにお披露目してたけど、ボサボサの長い髪もキュートですね。ほんでいかにもエヴァっぽい意味ありげな対話をしてたら、壁にTV版とかの場面がババババーと映って、EOEのあの幸福そうな集合写真が映って、そして「新世紀エヴァンゲリオン」のロゴが映って。そして、ふたりが、これからネオン・ジェネシスが、新しい世紀が始まるのだと高らかに告げる。もうさ、意味なんか全然わかんねえしさ、やっぱりこの演出も安直っちゃ安直なんだけどさ、でも、ここでこれを繰り出されるともう泣くしかないわけよ。庵野はホントに、すべてを、すべてを掬い上げて、不格好でも陳腐でもいいから、とにかくそこに何とかケリをつけて、大団円に導こうとしている。嬉しかったよ。嬉しかった。
●ミサトの特攻。BGMはもろびとこぞりて。なんちゅーかさ、シン・エヴァはさ、全体的に音楽が微妙だったな。挿入歌が滑ってるのはもちろんとして、鷺巣先生のスコアもそこまで振るわなかった。これは鷺巣先生が枯れたとかそんなことでは決してない。あの天才の泉が枯れるはずがない。ただ、もしかしたら、鷺巣先生はもういい加減エヴァの曲を作ることに飽きちゃったのかもしれない。当たり前だよなあ。もう26年だもんなあ。それに、庵野とタッグを組んだシン・ゴジラでは、彼は本当に神がかり的な名曲を矢継ぎ早に繰り出し、あの伝説の伊福部昭と互角の死闘を繰り広げた。鷺巣先生も、もういい加減エヴァからおさらばして、庵野と組むにしても、もっと新しいものにどんどん挑戦していきたいんじゃねえかな。
●ミサトから槍を受け取ったシンジは、よく分からんけど、それで自分を貫いて補完計画を阻止しようとする。しかし、そこでおかんが現れる。おかんは無言でシンジの身代わりになり、彼を水面へと送り返す。ここのシークエンスは、EOEでの表現を踏襲しつつ、旧劇よりもはっきりとした希望を打ち出しており、極めて感動的だった。母にありがとう。
●槍ですべてのエヴァンゲリオンがグサグサされてく場面、ネットでソードマスターヤマト呼ばわりされてて笑った。
ユーミンの歌をバックに、EOEっぽく世界が再生されてゆく。仕方ないけど、でも、ここはもうEOEの「甘き死よ来たれ」の狂気の迫力の足元にも及ばない。シン・エヴァではEOEの名場面を踏襲しつつ、それをポジティブな意味に書き換えてゆく場面が多々あり、安直ながらもやっぱりそれが効果的だったんだけど、ここはやっぱもう駄目だったね。ていうか、個人的にはここはEOEよりもさ、伝説のダイコンフィルムをパロってほしかったな。最後には荒れた地表が緑化していく場面もあるしね。なにもトワイライトを流せとか、シンジきゅんにバニーガールのコスプレさせろとかは言わないけどさ。いや、させてもいいけど、バニーコス。
●赤い海。
●EOE以来、2ちゃんねる(いまは5か)のエヴァ板で、こんな言葉をよく目にした。シンジとアスカは、いまでもあの赤い海に取り残されていると。たとえ破でシンジがスーパーシンジさんになって超パワーを手に入れようと、旧劇のシンジとアスカは、あの岸辺に取り残されたままなのだと。その二人が、いま、目の前にいる。シンジが言う。むかし君のことが好きだった。それでアスカは頬を赤らめる。これは新劇のシンジと式波で、旧劇のシンジと惣流ではない、たぶん。でも、先のカヲルの場面を踏まえれば、この二人に、24年間あの岸辺に取り残されていた、あの二人を重ね合わせても、決して咎められはしないだろう。シンジのアスカに対する告白が、式波・アスカ・ラングレーに対するものであると同時に、惣流・アスカ・ラングレーに対するものであったと、そう解釈しても、たぶん赦されるのではないか。同じ恵まれぬメンヘラ同士、どうしようもなく惹かれ合い、それでもなお傷つけ合い、そして世界の終末へと放り出されてしまった二人が、そして、そのまま、いつまでもチルドレンのまま、すべてから取り残されてきた二人が、ここで初めて大人になって、互いから卒業し、救われたのだと、そう解釈する余地を、庵野は残してくれたのではないか。ならば俺は、その余地に飛びつきたい。飛びついて、そして叫びたいのだ。もうあの赤い岸辺には、誰も取り残されてはいない。だから、全てのチルドレンに、おめでとう。
●青い海。
●海が青いよ。畜生。ご丁寧に宇宙から見た地球まで映してさ。青いよ。青い。海が青い。ああ、エヴァンゲリオンが終わってしまった。本当に終わってしまった。海が青い。
●さて。
●TV版放映以来今日に至るまで、LRS派とLAS派は血で血を洗う抗争を繰り広げてきた。そして、新劇の発表以来、我々の心にはずっとこんな関心があった。で、どっちとくっつくの? 破まで観たところ、これは綾波エンドだろうなと思った。Qまで観たところ、ぶっちゃけ分かんなくなった。そしてシンまで観たところ、俺は椅子から転げ落ちた。
●マリかよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
●いやー、シン・エヴァで最大のサプライズでしたよ。はい。成長したかつてのクラスメイトとかさ、ケンケンインパクトとかさ、ミサトさんと加持さんの子供とかさ、徹底的なまでのEOEの反復とその意味の反転とかさ、色々驚く点はあったけど、これが一番衝撃でしたよ。いやー。いやーははは。ははは。笑うしかない。
●ただ、劇場から出ていろんな考察を読んで、まあ、このラストしかないだろうなとも思った。
●熱心なエヴァファン諸賢の間では、真希波・マリ・イラストリアス正体は庵野のカミさんだという見解が半ばコンセンサスとなっている。それはたしかにそうだろうし、そうだとすると、すべてに説明がつく。
●これまで散々言われていたことだが、新世紀エヴァンゲリオンに出てくる登場人物は、すべて庵野秀明のペルソナだった。シンジも綾波もアスカも、誰も彼もだ。その濃度に差異はあれど、出てくるキャラはすべて、お面をかぶった庵野だった。エヴァとは畢竟は群像劇の形式を借りた庵野の自己内対話であり、その対話は庵野の鬱が極限に至ったことにより、EOEというかたちで、かくも美しく破綻し、瓦解した。そこには一粒の希望が残されていたが、それが観客に届くことはなかった。しかしその後、庵野はモヨコと結婚した。庵野の嫁さんへの入れ込みようは有名だ。たぶん、モヨコは肉親以外で、初めて庵野の内的対話に参与できた人物だったのではないかと思う。作劇としての自己内対話の内に、初めて他者が参与してきた。この決定的な変化を経たならば、あのエヴァンゲリオンを、まったく違った形で再創造できるのではないかと、そう庵野は確信したのではないか。だからこそ、一度完結した作品を、もう一度自分の手で作り直そうと決断できたのではないか。
●そう、エヴァのキャラはすべて庵野だった。自己自身だった。旧劇で結局、誰ともくっつかなかったのは、そこらへんも影響してるのではないかと思う。そもそも、レイなんて劇中の設定としても、半分おかんのクローンみたいなもんだから論外だし、アスカにしても、シンジとベクトルは違えど、精神の不安定に関しては似た者同士で、くっついたところで互いに傷つけあって破綻するのは目に見えていた。だから三人のチルドレンは、互いから卒業したのだ。シン・エヴァは、すべてのエヴァンゲリオンという呪縛から解き放たれる物語であると同時に、三人のチルドレンが、互いとの関係性という呪縛から解き放たれる物語でもあったのだろう。人は、相手と親密になれば、無条件で幸福になれるわけではない。互いに距離を取ることでしか手に入らない平穏もあるのだ。その公理が、はじめてチルドレンに適応され、互いとの関係から解放され、そして、みんなが大人になった。そう、大人になったのだ。
●14歳でないシンジがスクリーンに写ったとき、本当に、この26年に終止符が打たれたのを実感した。彼の声はいつもと違って、緒方さんこんな声も出せるんね~と思ったら、神木隆之介きゅんだった。びっくりしたわ~。びっくりした。でも、これでいいと思った。庵野が26年間エヴァに囚われ続けていたのと同じように、緒方さんをはじめ、エヴァの声優たちも皆、この作品に囚われ続けていた。この交代劇は、庵野が彼ら彼女らをエヴァから解放したことを意味しているようにも感じた。もちろん、これからもエヴァはコンテンツとして生き続け、エヴァ関連で声を収録することも多々あるだろう。しかし、この交代劇をもって、彼ら彼女らにとってのエヴァが、とてつもない重力を持つ代表作でなく、単なる出演作のONE OF THEMになったようにも感じた。もちろん、それは喜ばしいことだ。エヴァが終わってもキャリアは続く。声優にとっても、スタッフにとっても、俺達にとっても。


●ということで、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は、もう完膚なきまでにエヴァを終わらせました。本当にこれで終わりでしょう。本当に終わってしまった。今でも信じられない。
●いやー、観る前はさ、二時間半なんて冗長が過ぎるだろとうんざりしてたのだが、実際観てみると全くそんなことはなかった。むしろ、全編に渡って凄まじい濃度で、すべての展開が巻き巻きで、正直二時間半じゃ足りねえなというのが正直な感想だ。恐らく庵野としては、Qとシンの間にもう一本挟めたらどれだけいいだろうと思ってたかもしれない。でも、それをやったら、エヴァがまじで終わらない可能性が出てくる。先の震災しかり、今回のCOVID-19しかり、人生に何が降り掛かってくるかはわからない。だから、自分の目の黒いうちに、とにかくすべてにケリをつけようと、彼はそう決断したのだろう。庵野、大人になったな。
●シン・エヴァは面白かった。最高だった。最高だったけど、作品としては疵だらけ穴だらけだ。そもそも、この映画はEOEを踏まえつつ、それを肯定的に語り直すという試みだったと思う。作中でも、EOEの数々の名場面がリメイクされていた。しかし、そのリメイクの九割は、元のEOEには遠く及んでいない。エヴァへの熱が穏やかに冷めていったであろう今の庵野には、「俺の人生はエヴァのせいでメチャクチャなのでみんなぶち◯します!!!!!!」と絶叫する若き庵野の対戦相手は荷が重かった。そのことは庵野自身、重々承知していただろう。一度終わった物語を、もう一度語り直すなんて、物語作家として一番つまんない仕事だろうし、コピーがコピー元にかなわないことなんて、庵野みたいな作家が一番分かっていたはずだ。でも、彼はそれをやった。そしてやりきった。Qみたいな逸脱もあったけれども、最後の最後には、彼ら彼女らを青い海へと連れて行ってくれた。出来なんかどうでもいい。とにかく、それが俺は嬉しい。
●そう、この物語は陳腐だ。新劇全体を見渡すと、その内容は、旧劇以降に大量に作られた二次創作小説、特に本編再構成ものと呼ばれる作品群と驚くほど似通っていることが分かる。映画を観ている間、俺はずっと切実な感動に包まれていたのだが、それは、まったく観たこともないものを今観ているのだという感激ではなく、自分が、自分たちがずっと夢に見ていたことがようやっと現実になったという感慨だったのだろう。そう、完結したいま振り返ってみると、この物語は驚くほど素直だ。愚直だ。そんなもの、庵野みたいな作家は一番忌避している類のものだろう。しかし、膨大な情熱が生み出した膨大な二次創作群は、エヴァという物語を大団円に導こうとすると、それが陳腐になることを否応なく示していた。庵野はそれを拒絶して、鮮烈な地獄をもって終わらせることも出来ただろう。でも、今回彼はそれを選ばず、陳腐と批判されることを受け入れた上で、平凡な凡俗な幸福を彼ら彼女らに与えてくれた。だから、エヴァは終われたのだ。
●そう、旧エヴァは鮮烈で独創的な地獄だった。それが鮮烈で独創的だったからこそ、この作品は永遠の生命を獲得した。そして、それが地獄だったからこそ、この作品は今に至るまで俺たちを苦しめてきた。しかし、新エヴァはこの作品をもって、平凡な、ありふれた、陳腐な幸福をもって締めくくられた。平凡で陳腐だから、この作品は旧エヴァのような永遠の生命を獲得できないかもしれない。でも、幸福な結末だから、俺達はようやっとあの苦しみから逃れられたのだ。赤い海という鮮烈なイメージは、この作品にしかない独創だ。でも、俺達が渇望していたのは、この世界にありふれた、あの青い海だったのだ。

 

 

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に

  • 発売日: 2019/08/01
  • メディア: Prime Video