須賀敦子と俺
「コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」
須賀敦子を初めて知ったのはたぶん高校生の頃で、当時熱心に読んでいた松岡正剛の千夜千冊を通してだった。いま読み返すと大した書評ではないが、コルシア書店のあのうつくしい末尾を引用してくれただけで大いに価値がある。その文章に心惹かれ、確か学部生の頃に一度コルシア書店を手にとってみたのだが、そのときは大してピンとこなかった。読み返したのはいつだったろうか。学部四年か、院の頭か。何が作用したのかはよくわからないけれど、むかし読んだときは閉ざされていた彼女の声が、急にはっきりと聞こえるようになった。
彼女に没頭するようになったちょうどその頃、俺は大学の先生に留学を勧められた。夏の終わりか、秋の初めか。そのときは無茶だろうと断ったけれども、先生は是非にと食い下がった。それから何ヶ月か、そのことを考えに考え、調べに調べ、その年が終わる直前に、やってやろうと決心した。大学院棟のPC室で、外はもう暗かった。今でもはっきりと覚えている。
ヨーロッパに行く。そう決めてから、須賀敦子が自分にとってさらに重大な位置を占めるようになった。戦後間もなく、単身でヨーロッパに渡り、キリスト教を核としつつ、ひろく文学思想と、そして人間なるものを学んだ彼女に、俺はとうぜん自分を重ねた。無論、ヨーロッパで学ぶことの意味は、当時と今では、彼女と俺では、まったく違うことは明白だった。それでもなお、彼女がフランスで味わった孤独や、イタリアはミラノで得た生の実感を、自分はまるで我が物のように受け取った。これをこれから、自分は経験するのだと。そして、それをくぐり抜ければ、こんな作品を、自分も残せるようになるのだと。そんなふうに、無邪気に信じていた。
彼女は夫の死について多くを語らない。それは彼女の作品群において、大きな空白として提示されている。俺たちは当然、それを知りえない。だから、その空白は同時に、眼を覆う闇でもある。ユルスナールの靴の中で、そういえば、霊魂の暗夜に彼女は言及していた。つまりは、そういうことなのだろう。
暗夜だの闇だのといった瀟洒な表現はもったいないけれど、でも、自分にとっての留学の挫折は、まあ、それに近いものだったと思う。それはつまり、自分がこう生きたいと何年も夢に見ていた道が、はっきりと、二度と戻らないかたちで崩壊したことを意味していた。大きな空白に飲み込まれたようだった。
茫漠たるあの虚無の上に、あれから俺は、こつこつと、苦労しながら道を敷いてきた。その過程では、究極的には、誰にも頼ることができなかった。でも、それで良かったらしい。誰かに頼ろうと必死になっていた学生時代よりも、それを諦めた今のほうが、人生はずっとうまく回っている。
思えば、学生の頃は、誰かに頼られ、誰かに頼るという関係に憧れていたように思う。それはきっと、孤独極まる青春を過ごした自分のうちに芽生えた怪物だった。そいつはマンガだの宗教だのといったかたちで世にはびこる神話を糧に肥大し、そして俺を破滅に追いやった。しかし皮肉にも、その破滅を経たおかげで、俺は、ひとりでしか生きることのできない自分を受け入れることが出来るようになった。そのとき、ようやく俺の人生が始まったのだと思う。
そう、たしかに孤独は、かつてあんなに恐れたような荒野などでは決してない。まさしく彼女の言ったとおりだ。でも、だとしたら何なのだろうか。それについて彼女は、夫の死と同様、ゆたかな沈黙を貫いている。そこまで言ったら、やぼってものでしょ、そんなふうにほほえみながら。