新海誠『言の葉の庭』――空から降る一億の新海汁
きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。
中高生の頃、よく山奥にある古本屋にまで自転車で走って行っていた。豊かな緑に囲まれたその店は、たぶんその山の木で作られていた。山ほどの本。どこまでも続くベランダ。となりには喫茶店。夢のような場所だった。そんな場所にいると、思春期漲る文系童貞の妄想はどこまでも飛翔してしまう。たとえばこうだ。ある日、そこでネビル・シュートの『渚にて』を読んでいたら、射干玉の髪の美人がすっと覗きこんできて、わたしも好きよ、その本、そんな風に世界が終わればいいって、いつも思ってる、と話しかけてきて、何となく隣りあって本を読んで、そのうちぽつぽつと言葉を交わして、やがて二人は――。あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ何を言っとるんじゃ俺は死にたい死にたい死にたい!!!!! まあ、とにかく、そんなことを妄想したりしとった訳です。俺は。こんな妄想、完全に忘れていたはずなのに、この映画のせいで、それはそれは鮮明に思い出してしまった。恐ろしい映画だ、こいつは。
冒頭はまだ良かった。純粋に新海先生の神の如き美術に酔っていれば良かった。たとえば、水面の上に項垂れた枝がゆっくりと震える場面や、雨の落ちる道の上を足と靴とが歩いてく場面などは、ただ単に美しいだけではなく、眼に見えないはずの空気がそこに存在しているとハッキリ感じられ、もう見てるだけでゾクゾクした。この作品の中で描かれているものの実在を観客が実感できるよう、新海先生が全力を尽くしていることがありありと分かった。
しかし、主人公の少年が御苑の東屋を見つけた辺りから、何か雲行きが怪しくなってくる。そこには射干玉の髪の美人が座っている。間違いなく童貞の主人公は本当だったらビビってそこを避けるはずなのに、何故か彼女の傍に座る。んん?? んんん??? 二人は初め、黙り込んだまま、スケッチをしたり、酒を飲んだりしている。でも、やがて二人は言葉を交わす。んんんんんんん?????????やがて美人は席を立つ。美しい和歌の謎かけを残して。んんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんn??????????????????????・ここでいったん一時停止する。なんだこれは??????なんなんだこれは???????これちょっとほんとうに俺の妄想そのままじゃないか?? なんだこれは????? 新海先生は思考盗聴でもしたのだろうか???んんんん????そして、俺は分かってしまった。新海先生の意図を。先生は俺の、俺たち文系童貞の思春期の妄想を神の如き実在感をもって再現しようとしているのではなかろうか。そんなの観て人間精神は大丈夫なのだろうか。たぶん大丈夫ではない。でも観る。再生。
二人は雨の日の午前にだけ、御苑の東屋で落ち合う。少しずつ距離が縮まっていくらしいが、具体的にどうやって二人が打ち解けていったのかは描かれない。そこがリアルだ。俺たちの妄想に忠実だ。だって異性とか分かんないから、どうやって仲良くなればいいとかぜんぜんわかんないじゃん? だから仲良くなる過程はすっ飛ばす。すっ飛ばして決定的な場面に映る。正解。
美人は少年が描いているスケッチについて訊く。少年は、靴職人になりたいという夢を話す。そしてある日、自分は一人の女性のために靴を作りたいのだと告白する。それで彼女は、少年に足を差し出す。彼は初めて彼女に触れる。定規で測り、巻き尺で測り、彼女の足をなぞり、その輪郭を紙の上に記録する。彼は、彼女の、恐らく人間の中で最も魅力的だと思っている部分を、完全に把握し、我が物とする。なのに、彼女が何者か知らない。年齢も、職業も、名前すら知らない。これはですね、大変なことですよ。つまり思春期の我々にとって異性というのは完全なる謎であり、決して把握し切れぬ何かなのである。そして、少年にとっての美人もまた、ほぼ完全な謎として留まっている。しかし、彼は、彼女の一番知りたい謎を、完璧に、完全なる同意のもとに解明してしまったのである。解明してしまった。でも全体は謎のままなのだ。すごすぎる。完璧じゃないか。もうこのシーンを観てて俺は気絶しそうだった。すごい。すごすぎるぞ先生。新海先生。あんたには誰も敵わない。
そう、少年にとって美人は謎だ。でも、美人が肉体と戸籍を有した現実存在であるからには、いつまでも謎めいたままではいられない。新学期、少年は謎の美人と自分の学校で出くわす。そこでベールがはがされる。彼女は雪野先生といって、古典の先生で、生徒からのいじめのせいで不登校をしていたってことが分かる。それを知って少年は憤怒する。憤怒していじめの張本人である不良たちのもとに赴く。そして首謀者のヤンキー女をひっぱたき、ガタイのいいあんちゃんにボコボコにされる。そして名誉の負傷を負った少年は、いつもの場所に、雪野先生に会いに行く。土砂降りになって、二人はびしょ濡れになる。するといきなり場面が飛ぶ。雪野先生が少年のシャツにアイロンをかける。少年は先生の台所でオムライスを作る。二人でそれを食べる。コーヒーを飲む。今が一番しあわせだと、二人が呟く。
セックス!!!!!!! これは確実にセックスですね!!!!!! もうこれはですね完全にセックスですよと乱舞していた矢先、少年が雪野先生に愛の告白をする。んんんんんn??????????? 彼女は戸惑い、顔を赤らめるが、でも、やがて諦めたような顔で別離を告げる。んんんんんんんんんんんん???????????????????・ なんとこの二人、ここに至ってセックスどころか、自分の気持ちを相手に伝えることすらしてなかったのである。凄まじ過ぎやしないか。さて、それを聞いて少年は去る。残された彼女は、少年の存在の大きさを実感し、はだしで彼を追いかける。彼に追いつく。本音をぶつけ合う。光が差し込む。二人は抱き合う。流れる音楽。引いてくカメラ。ハレルヤ!!!!!!!!!!! アーメン!!!!!!!!! これぞ理想の結末である。セックスがなんだ!!! 俺たちにとって必要なのはそんな猥雑な肉なるものではなく、本当に自分をさらけ出して理解し合うことなんだ!!!!!!! 先生ありがとう!!!!!! これぞ映画だ!!!!!!
とか何とか言いながら、その実だれよりもスケベイなのが俺たちのような人種でして、新海先生はそこのところをきちっと余すところなく描きだしておいでです。何よりも、あの足を計測するシーンですね。あそこあんまりにもエロ過ぎやしないですか。あと、雪野先生が自分の部屋で元カレに電話してるシーン、あそこの彼女の背中、特に背骨、ちょっと本当にあんまりにもエロ過ぎやしないですか。大丈夫なんですかあんなものん描いてしまって。ありがとうございます。
さて、一時間にも満たないこの作品を観終わって、俺は完全に駄目になっちゃっている。案の上、俺の哀れな人間精神はムクロと化し、かつて完全に葬り去ったはずの思春期キモ妄想に再び憑りつかれてしまっている。これは完全に災厄であり、呪うべき事態のはずだ。なのに、俺はかつてない清々しさに包まれてる。なぜならば、幾年もの時を経て再び姿を表した文系童貞の妄想は、まるでこの作品に降る雨のような清廉な姿をしていたからである。そう、この作品は俺たち文系糞童貞の妄想で構成されている。少年も美人も、緑もビルも文庫本も電車も抱擁も、すべて俺たちの、新海先生の妄想だ。しかし、その最たるものは、間違いなく、劇中ひたすらに降り続いていたあの雨だろう。俺たちの妄想は、色んな意味で水のようである。自由自在にかたちを変えながら、しかし本質としては同一である。それは本来、汚物のような汁のはずであった。しかし、新海先生はその汁を、かくも美しき雨へと昇華してしまったのだ。新海汁*1は、俺たちの妄想汁は、まるでタルコフスキーの水のような崇高さを与えられ、やがて結ばれる二人の上に降り注ぎ、その恋を言祝いでいる。こんなものを見せられて、万歳三唱せずにいられるか? いられないだろ?
この作品に至るまで、新海先生は何というか、行ったり来たりを繰り返していたように思える。とんでもない傑作を作ったと思ったら、何か微妙なものが出てきて、それでまた傑作が出てきたと思ったら、弁護しようのないうんこを供したりしてた。それはきっと、自分の足にぴったりの靴を求める新海先生の試行錯誤悪戦苦闘だったのだろう。そして、この作品において、新海先生はそのぴったりの靴を、ついに手に入れてしまったように思う。その証拠に、ほら、その次の作品で先生は、恐らく自分でも想像していなかったほど遠くへと駆け抜けてしまった。そして彼はまだ働き盛りで、まだまだ遠くへと向い走っている。いいよ新海。どこまでも行け。俺たちの汁を携えて、叡知界の高みにまで駆け上ってくれ。
*1:この術語の起原ってどこなんだろう。やっぱペンクロフ先生?