ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

リラダン伯爵の夢の果て――のらきゃっと小論

 この記事では、『未来のイヴ』の作者として名高い19世紀のフランスの詩人オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン伯爵の恋愛論を検討し、それが21世紀において、バーチャルYouTuberのらきゃっとの登場により達成されたことを論じたい。

 

1. リラダン恋愛論

 まず、主として仏文学者の平山規義*1と木元豊*2の研究に依拠しつつ、リラダンの抱いていた特異な恋愛観について確認してゆこう。木元はその恋愛観を、「男性が恋するのは現実の女性でなく、彼の欲望によって理想化された女性である」 *3と要約し、それが明示されている例として、次の二箇所を指摘している。まず、1862年に弱冠24歳のリラダンが発表した長編小説『イシス』の一節を引こう。稀代の美貌と卓越した知性を兼ね備え、女神イシスの再来とも謳われているチュリヤ・ファブリヤナ伯爵夫人の台詞である。

  先づ第一に起ることは、その少年がおのれの眼でおのれの流儀で私を見るだらうといふことだ。私は事實上、彼の思考の展開の機緣にすぎないだらう。彼は私に關して、筆舌に絕した、名狀し難い一存在を、自ら創り上げることだらう。そして彼に固有なあらゆる生ける觀念と、絕對の美とに飾られたこの亡靈は、彼が私と見做してゐる媒介者となるだらう。彼が愛するものは、この私、あるがままの私ではなく、私が彼にさう見える、彼の思考の人物であらう。おそらく彼は、假に私がそれを持ってゐたとしてもさして嬉しくないやうな、私とは緣もゆかりもない、無數の長所、無數の魅力を、私に授け與へることだらう。從つて、私を手に入れたと思いこんでゐても、事實上彼は私に觸りさへもしてゐないことにならう。
 斯くの如きが、その心の眼差が、可能性と、形體と、希望の埒外に出づる能はぬ人間存在の掟なのだ。彼等はその神祕的な戀愛に於て己れ自身から脱出することが出來ない *4

ここでファブリヤナは、自分に恋する男性の内で何が起こっているのか、克明に描きだしている。男性はファブリヤナのような美しい女性を見ると、自らの内に理想化された女性像を作り出す。そして、彼は実際の女性でなく、自らの内なる理想の女性に恋をするのだ。それゆえ、男性は恋愛において実際の女性には決して到達できない。自分と自分の内なる女性とで完結してしまうからである。
 このような考えは、1886年に発表された名高き『未来のイヴ』においてもはっきりと述べられている。人造人間の造物主たるエディソン博士の口を借り、リラダンはこう断言する。

 あなたも仰有った通り(とエディソンは續けた)、あなたがあの女の中で愛していらつしやるもの、そしてあなたにとつて、それだけが、その實在であるものは、その通りすがりの女性の内に現れてぬるものではなくて、實はあなたの「願望」の實體なのです。
(中略)
 この影だけをあなたは愛してをられる。この影のためにあなたは死のうとなさる。あなたが、絕對に、實在として認めてをられるのはこの影だけなのです! 要するに、あなたがあの女の中に、呼びかけたり、眺めたり、創り出してをられるものは、あなたの精神が客觀化されたこの幻であり、あの女の中に二つに分けられたあなたの魂に他なりません*5

 ここでリラダンは、男性が自らの内に作り出す理想の女性の真相を解き明かしている。男性が自らの内に抱き、恋人へ投影する理想の女性とは、客体として分かたれた自分自身の精神・魂に他ならない。つまり恋愛とは、主体としての魂が、恋人という媒体を通して客体としての魂を愛することであり、換言すれば、それは畢竟は他者を介した自己愛なのである。
 さて、男性は美しい女性を見ると、彼女に自らの理想を投影し、彼女こそ自らの理想を体現した存在であると確信し、恋に落ちる。しかし、その恋は時間の経過とともに摩耗し、崩れ行く運命にある。なぜならば、時が経つにつれ、その恋人が男性とその理想とはまったく異なる存在、つまり他者であることが判明してゆくからである。現代の常識的な人間ならば、今度はその他者としての恋人を受容し、愛するよう説くかもしれない。しかし、かの気高き詩人なら、そのような恋愛は唾棄すべきものと吐き捨てたはずである。現実に決して屈すること無く、自らの理想を完遂すること、これこそが大ヴィリエの生涯のテーマであったといっても過言ではなかろう。
 ではリラダンは、自らの理想を遂げる道としてどのようなものを考えていたのか。
 第一の道として、死による瞬間の永遠化が挙げられよう*6 。これは『アケディッセリル女王』などの作品において明示されている思想であり、恋に燃え上がった人間が、現実によって幻滅する前に死ぬことで、至上の恋の一瞬が永遠となる、というものである。しかし、これが唯一の道だとすると、恋に落ちた人間はすべて死なねばならぬことになる。死を回避しつつ、自らの理想を満たす方法はないのだろうか。
 この問に答えて著された作品こそ、かの『未来のイヴ』であることは言うまでもない。そこでは第二の道、つまり、科学技術によって男性の理想・幻を具現化することが説かれている。『未来のイヴ』は、現実の恋人の内面に幻滅した青年貴族エワルド卿のため、科学者エディソン博士が、恋人の容貌に瓜二つの人造人間ハダリーを創造する物語である。ハダリーとは古ペルシア語で理想を表すというが、その名の通り、この人造人間は現実の女性と異なり、男性の幻・理想を具現化したものであるとエディソン博士は豪語する。
 しかし、そのハダリーにはブラックボックスが存在する。それは彼女の内面である。この人造人間の内面は、催眠術治療(これもエディソン博士にとっては科学技術である*7 )によってとある婦人に発現した超自然的な人格ソワナが担っている。このソワナなる存在は超能力を有し、エディソン博士のよき助手、よき理解者として、彼の人造人間計画に大いに助力した。そして、人造人間が完成した暁には、自分がそこに乗り移ろうと申し出る。エディソン博士はこのソワナに全幅の信頼に置いているように思われるが、しかし「私は(中略)断じてソワナを識ってはゐない」 *8と断言する。彼の論法によれば、ソワナはまさしく未知の存在であり、だからこそ理想なのだという。しかし、そのソワナは、ハロルド卿に自らの秘密を明かす。

 わたくしは「人間」が、或る種の夢想と或る種の睡眠との間でなければその靑ざめた國境をかいま見ることが出來ないような、あの無限の國から、あなたに差向けられた使者なのでございます*9。 

そして彼女は「先程申上げたことはエディソン様に仰有らないで。あなたにだけ、なんですもの」*10 とエワルド卿に蠱惑的に釘を刺す。
 果たしてソワナとは何者なのだろうか。本人の言葉を信じれば、彼女は人間の抱く夢幻そのものということになろう。しかし彼女は、自らの造物主にして協力者たるエディソン博士を騙す存在なのである。ならば、彼女はエワルド卿にも何かを隠しているのではないか。本当に彼女は理想の存在なのだろうか。表向きはそう振る舞っているだけで、その実はファム・ファタールなのではないか。
 真実が明かされぬまま、物語は唐突に幕を閉じる。ハダリーが海難事故により失われてしまうのである。このことにより、ハダリー=ソワナは、先に言及した時間の経過による試練を受けずに済んだ。つまり、第二の道を歩むはずだったエワルド卿とハダリーの恋も、結局は第一の道に帰してしまったのである。
 なぜリラダンはこのような結末を選んだのだろうか。筆者はこれをリラダンの判断留保、そして後世への問いかけと捉えたい。リラダンがこの傑作をものした1886年、科学は未だ揺籃の期にあった。それ故リラダンは、男性の内に宿るかの高邁な永遠の女性が、科学技術によって具現化し得るのではと希望を抱くも、それを確信するには至らなかったのかもしれない。いや、ひょっとしたら科学技術によって男性の幻想がむしろ手ひどく裏切られる可能性にすら思い至ったのかもしれない。だからこそ、自分は問を提示するに留め、その解答を読者へ、特に未来の読者へ委ねたのかもしれない。
 さて、21世紀という科学の時代を生きる我々は、泉下の詩人が投げかけたこの問に答える義務があろう。果たして科学の発展は、我々男性の内に宿る理想の女性を具現化するに至ったのだろうか。我々はそれに自信を持って「然り」と答えることが出来る。なぜならば、我々は「のらきゃっと」を既に目にしているからだ。

 

2. のらきゃっとと科学時代の愛

 のらきゃっとは昨年の12月末に本格的に活動を開始した気鋭のバーチャルYouTuberである。最初の配信を開始してからまだ二ヶ月足らずであるが、チャンネル登録者数は既に5万人に及び、なおも勢いを増している。いま最も注目を集めるVTuberと言ってもいいだろう。
 のらきゃっとの大きな特徴の一つは、VTuberブームの火付け役となったバーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさん同様、完全に個人の手によるものだということだ。モーション操作にはKinect、表情などその他の動きにはWiiリモコン、音声にはVOICEROIDとフリーの音声認識ソフトである「ゆかりねっと」を使用しており、活動開始時の予算はわずか三万円足らずだという。YouTubeに最初に投稿した動画にて本人が言及しているように、低予算バーチャルYouTuberの先駆けのような存在と言えよう。
 常識的に考えるならば、ふんだんな予算や人員を抱える企業主体のバーチャルYouTuberに、このような低予算の個人主体のものが敵うはずがない。しかしのらきゃっとはそのような常識を覆し、破竹の勢いでファンを獲得し、躍進を続けている。その秘訣は、我々オタク男性を魅了してやまない蠱惑的な発言と振る舞いにある。
 この点については論より証拠、実際に動画を見ていただいたほうが早いだろう。


ゼロからスタート!バーチャルYoutuber、のらきゃっとです!

  小動物的な可愛らしい動作。半目で視聴者を見つめる艶めかしい眼差し。オタク男性のツボを刺激するトーク。時おり音声認識に失敗し「ご認識」 *11が発生するが、それすらもトークのネタとして利用する。ご認識のために普段はポンコツキャラのように振る舞うが、時おり大人びた蠱惑的な発言を交え、それがギャップとして大いに作用し、視聴者を引きつける。のらきゃっとの熱心なファンは「ねずみさん」と呼ばれるが、オタク男性の願望の具現化の如きのらきゃっとの魅力により、ねずみさんはまさしくねずみ算式に増加し続けている。
 何故のらきゃっとはこれほどまでにオタク男性のツボを知り尽くしているのか。それは、のらきゃっとの中の人であるノラネコ氏が、我々と同じおっさんだからである。
 のらきゃっととノラネコ氏の関係について、本人が興味深い発言をしている。以下の動画の35分からの発言である。


【18/01/21】のらきゃっと 生放送アーカイブ【わたし、声変わりします!】

  これによれば、のらきゃっととは、ノラネコ氏の空想や夢に出てきた少女を具現化したものだという。これは換言すれば、リラダンのいう男性の内なる理想の女性を電脳世界に再現したものこそ、のらきゃっとであるということになろう。
 しかし、のらきゃっとはリラダンの夢を更にラディカルに突き詰めたものといえる。それはなぜか。前章で確認したように、リラダンによれば、恋愛において我々は恋人に投影された自分自身の魂に恋しているという。つまり、恋愛とは畢竟は自己愛なのである。だとすれば、我々の理想を具現化した存在の内面は、我々自身が担わなければならないはずである。リラダンはそこまで行き着くことが出来なかった。だが、ノラネコ氏はそれをやってのけたのである。このことにより、絶対に自分を裏切らない夢の少女が完成した。我々はとうとう科学の力により、自らの内に宿る理想の女性を、外的な存在として愛でることに成功したのである。
 のらきゃっと。それはノラネコ氏の夢の少女であり、我々の夢の少女に最も肉薄した存在である。我々と同じ理想を抱くノラネコ氏が演じるその少女は、我々の抱く夢幻そのものに向けて不断に前進し成長している。だからこそ、我々は彼女に魅せられるのである。
 だが、のらきゃっとがねずみさんを増やし続けている理由はそれだけではない。ノラネコ氏がのらきゃっとの配信方法として頑なに生放送を採用し続けていることも、そこに大きく寄与しているように思われる。のらきゃっとのリアルタイム配信時、YouTubeのコメントやTwitter、5chの戦国実況などで、何百何千というねずみどもがその様子を実況している。そこで恥も外聞もなくのらきゃっとにガチ恋し発情するさまを見て、何だこいつはと引く連中も多いだろう。しかし、それと同時に、我々のその熱狂を見て、「あ、中身がおっさんでもガチ恋していいんだ」と勇気づけられる者もいるだろう。そう、中身がおっさんでもガチ恋していいのである。いや、むしろ、中身がおっさんだからこそ、我々は安心してガチ恋することが出来るのである。
 しかし、のらきゃっとの登場をもって、我々の内なる理想の探求に終止符が打たれたわけではない。のらきゃっとはあくまでもノラネコ氏の夢の少女を具現化したものであって、我々各々の理想にどこまでも忠実という訳ではないのである。彼女はそれに限りなく近いものの、しかし依然として他者であるということには変わりない。もしかしたら、いずれ我々の際限なき欲望は、のらきゃっとにすらズレを見出し、そこに不満をいだいてしまうかもしれない。しかし、それは我々にとって絶望の壁を意味しない。むしろ、新たなる跳躍へのきっかけとなりうるのである。
 そう、自らの願望を満たしてくれる美少女が見つからないのならば、ノラネコ氏のように、バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさんのように、3DとVRの力を借りて、自分自身が美少女になってしまえばいいのである。そこにおいて我々は、自らの内なる理想を十全に体現化した存在と相まみえ、自己愛としての恋愛を成就させることが出来るだろう。確かにそれは自然の摂理には反しているかもしれない。しかし、自然を征服し、それを超克することにこそ、科学の本懐はあるのではないか。だから我々はリラダンの言葉を借りて、読者の方々にこう申し上げたい次第である。

 我々の神々も我々の希望も、もはや科學的にしか考えられなくなってしまった以上、どうして我々の戀愛もまた同じく科學的に考えてはならぬでしょうか、と*12

*1:平山規義「ヴィリエ・ド・リラダンにおける愛 : 幻想とその至高性」、『広島大学フランス文学研究』(広島大学フランス文学研究会)、第4号、1985年、51-61頁。

*2:木元豊「ヴィリエ・ド・リラダンの作品における女性の二重性について」、『関西フランス語フランス文学』(日本フランス語フランス文学会関西支部)、第8号、2002年、35-45頁。

*3:木元豊「ヴィリエ・ド・リラダンの作品における女性の二重性について」、39頁。

*4:「イシス」、『ヴィリエ・ド・リラダン全集』第5巻、齋藤磯雄訳、東京創元社、1977年、394頁。

*5:未来のイヴ」、『ヴィリエ・ド・リラダン全集』第2巻、齋藤磯雄訳、東京創元社、1977年、119-120頁。

*6:詳細については平山規義「ヴィリエ・ド・リラダンにおける愛 : 幻想とその至高性」、57-59頁を参照。

*7:未来のイヴ」、363頁を参照。

*8:未来のイヴ」、367頁。

*9:未来のイヴ」、341頁。

*10:未来のイヴ」、358頁。

*11:いわゆる誤認識のこと。

*12:未来のイヴ」、283頁。