尾崎かおり「ラブレター」――神様のように愛すること
愛は無条件であるとき超自然的である。無条件な愛は狂気(愚かさ)である。
はじめに
少し前に岡田斗司夫の『この世界の片隅に』評を観た*2 。その中で彼は、感動の一番すごい領域っていうのは、泣くことでも笑うことでもなく、ただただ圧倒されて言葉もなく呆然となることだ、という旨のことを言っていた。成金不倫豚のくせに、なかなかいいことを言うなあと感心した覚えがある。そう、人は本当に感動し、圧倒されたとき、言葉も思考もなく、ただただ呆けて立ち尽くすしかない。わたしは今年、そういう体験をした。
それは7月末のことだった。真夜中に自転車で遠出して、夜間もやってる中華料理屋で麻婆拉麺を食べた。その後、隣にあるコンビニにふらりと入ると、月刊アフタヌーン2016年9月号が置いてあった。『コトノバドライブ』でも読もうと手にとって、そういえば、尾崎かおりの新作もこいつに載ってたなと思い出した。巻頭にあった。一気に読んだ。帰り道も、次の日も、この作品のことばかり考えていた。
今回は、その問題の作品、尾崎かおりの「ラブレター」について、拙いながらも書いてみたい。最初に読んでから5カ月近く経って、ようやく自分の感動を言葉に出来るようになったと思う。
※この記事は尾崎かおりの「ラブレター」と『神様がうそをつく』のネタバレが満載です。読んでない人は是非ぜひ尾崎作品に触れてみてください。
あらすじ
物語は天界から始まる。多くの霊魂が自分の生まれる母親を神や天使と共にさがしている。とある魂が、魚沼麻子という17歳の少女に一目ぼれし、彼女の子供として生まれたいと嘆願する。麻子は男の家を渡り歩く家出少女で、有利な育成環境はとうてい望みえない。それでも霊魂は彼女の子供として生まれることを熱望し、それを実現する。
麻子は一児の母になったが、間もなく父親と思われる男性に捨てられる。居場所を転々とした後、彼女はワンルームに居を構える。生活を支えるため、彼女は身体を売り始める。そしてある日、彼女は子供を部屋に置いたまま、ドアに鍵をかけ、子供を殺す。
当然ながら麻子は虐待と殺人の故に裁かれる。しかし、当の魂は、彼女といて幸せだったと何の衒いもなく言ってのける。そして、あるときは猫に、あるときは花に、風に、雨に生まれ変わっては麻子に愛を伝え続ける。
1.麻子――善悪について
尾崎かおりはこの作品について次のように述べている。
個人的に問題作な気がする…。
編集会議でも激しく賛否両論だったんだってw
ザワザワw
でも載せることに決めてくれた編集部に感謝します。*3
「ラブレター」が大傑作であることは言を俟たない。だが、実際に誌面に載せるとなると、否の意見が出るのもやむを得ないだろう。その理由はいくつか挙げられるが、「下手すると虐待・ネグレクトを正当化していると捉えられるかもしれない」という点が最も大きかったのではないだろうか。
この作品では、虐待を犯した麻子に焦点が当てられ、彼女の心情に寄り添って物語が展開する。その筆致は麻子に同情的であると言ってよく、読者たるわれわれは、彼女がそのような罪を犯した心情につい共感し、彼女が罪を悔いる姿に憐憫の情を掻き立てられてしまう。
さらにこの作品の異様な点として、被害者たる子供・魂が、自分が殺されたことを一切気にしていないことが挙げられよう。彼は無残に殺されてもなお、麻子のことを微塵も恨んだりしない。それどころか、自分は彼女の子供で幸せだったと、彼女を今でも、これからも愛し続けると言ってのける。そして彼は実際に、猫に、花に、雲に、歌に、風に、雨に生まれ変わっては、孤独な麻子に愛を伝え続けるのである。
すごい作品だが、同時に、かなり危ういとも感じてしまう。当然、アフタヌーンの編集部もそう思っただろう。それでも「ラブレター」を掲載したのは、尾崎が以前に同誌で『神様はうそをつく』を連載していたからではないか。
『神様はうそをつく』もネグレクトを主題にした作品であり、「ラブレター」とはコインの裏表のような関係にあると思う。『神様はうそをつく』では、ネグレクトを受ける子供の苦しみや葛藤が徹底的に描かれているし、ネグレクトを犯した父親はどうしようもない人間であると明確に表現されている。つまり、同じ主題を扱いつつ、全く正反対の表現がされているのだ。『神様はうそをつく』を読めば、尾崎がネグレクトを肯定している訳ではないことが容易に分かる。だからこそ、この問題作を掲載できたのではないだろうか。
しかし、ここで一つ疑問が生じる。どうして尾崎はネグレクトという問題について、全く正反対の物語を描いたのだろうか。一方では虐待した父親を忌むべき人間として描き、他方では母親を同情すべき、愛すべき人間として描いている。その意図はどこにあるのだろうか。
わたしはここにこそ、尾崎かおりの思想が表明されているのではないかと思う。
作中のとある場面のことだ。殺された魂は天界に戻ったが、それでも麻子に感謝し、彼女を愛し続ける。天使が彼に、麻子が罪を裁かれ、ネットで彼女が糾弾されている様子を見せる。こんなこと望んでないと魂は言う。それに天使はこう答える。
人間たちは
善と悪という
幻想を作り出し
自分たちを
仕分けることに
したからさ
ネット見てみ
みんな
善の側に立とうと
必死だ*4
ここで天使は、人間の善悪は幻想にすぎないと言っている。恐らくこれは、尾崎自身の信条であると思われる。彼女は自身のブログで、次のように述べていた。
人が、何かに対して思う、悲しいとか、かわいそうとか、間違っている、とかはただの解釈で、
ものごとは、悲しくも、正しくも、間違いでもなく、ただそこにあるだけです。*5
つまり尾崎にとっては、これは善でこれは悪だ、という判断も、畢竟は解釈に過ぎないのである。
ただし、だからと言って善悪の規準を捨てろと尾崎は言っている訳ではないと思う。彼女はむしろ、自分の身勝手な解釈を、さも絶対的な規準のように振り回すことの危険性を伝えたかったのではないだろうか。だからこそ尾崎は、ネグレクトという同一の主題について、まったく正反対の物語を描いたのではないだろうか。
『神様はうそをつく』を読むと、虐待を犯した父親への憎しみが募るが、「ラブレター」を読むと、麻子への共感と憐憫で胸が締め付けられる。同じ罪を犯した人間に、対照的な感情を抱かされてしまうのである。そしてわたしは気付くのだ。自らの善悪の判断が絶対的なものでなく、単なる解釈であることに。そして、そのことに気付いてなお、わたしは何らかの基準に従わなければ生きてはいけないのである。この作品から与えられた問題は、あまりにも重い。
2.魂――愛について
この作品が孕む第二の問題について語ろう。それは、魂が麻子に抱く愛である。この愛は極めて異様だ。なぜならば、それはまったく無根拠にして無尽蔵だからである。
そもそも魂が麻子に惚れこむきっかけからして曖昧だ。彼は初めて麻子を見たとき、「なんてきれいな人だろう…」*6 と思う。そして次の瞬間には、彼女の子供になることを熱望するようになっている。だが、他にも美しい女性はいるのに、なぜ麻子でなければならなかったのか、我々には全く分からないのだ。
天界に戻ってきてからも、魂は同じ調子である。無残に殺されたにも関わらず、この魂は麻子といて楽しかったと言ってのける。曰く、彼女はブランコに乗せてくれた、目玉焼きを作って食べさせてくれた、と。これらは確かに美しい思い出ではあろう。しかし、彼が受けた仕打ちを無視するには、余りに弱い根拠であるとも思う。
以上見たように、魂は確かに麻子への愛の動機・理由を語ってはいる。しかし、それはどれも麻子でなくても成り立つようなものばかりであり、なぜ「彼女」でなければならないのかという点については、全くわからないままなのだ。
そして凄まじいことに、魂の愛は無根拠でありながら、壮絶なまでに無尽蔵である。彼は母として麻子を愛し、殺されてもなお、一切怨みを抱かず、彼女の子供で幸せだったと述べる。さらに彼は麻子の傍にいるために、その後も幾度も生まれ変わり続けるのだ。彼はまず麻子の恋人になることを願うが、それは却下される。ならばと彼は猫になり、次は花に、雲に、歌に、風に、雨に、虹に生まれ変わり、ただひたすらに一つの言葉を麻子に伝え続ける。
僕だよ
みんな僕だよ
君を愛してる。*7
そう、彼の愛は子の親への愛に留まらない。彼はそれだけでは満足できないのだ。彼は時間の許す限り、麻子にかかわるすべてのものに生まれ変わっては、ありとあらゆる形態で彼女を愛し、彼女に愛されることを望んでいる。その姿は極めて感動的であるが、同時に畏怖の感情も引き起こされる。彼の愛は、我々が親しんでいる愛とは全く異なる。それは何か恐るべき、超越的なもののように感じる。
この魂に最も近いのは何だろうと考えたとき、真っ先に浮かぶのが、シモーヌ・ヴェーユの描いた愛の神である。彼女は晩年にアメリカで記したノートの中で、愛の神を次のように描いている。少し長いが引用しよう。
神は神を愛する者たちとのあいだに約束ごとにのっとった言語を規定する。日々の生活のできごとのひとつひとつはこの言語の一単語である。これらの語はすべて同義である。(……)これらの語のすべてに共通する語義は「われ、なんじを愛す」である。
一杯の水を飲む。それは神の「われ愛す」である。砂漠をさまよい、二日も飲み水を見つけられずにいる。喉の渇きは神の「われ愛す」である。神は恋人にまとわりついて何時間もとめどもなく「愛してる、愛してる、愛してる、愛してる……」と耳もとにささやくしつこい女のようだ。
(……)
神は被造物に向かって「われ、なんじを憎む」と言うための語をもたない。
ところが、被造物のほうは神に「われ、なんじを憎む」と言うための語をもっている。
ある意味で被造物は神よりも強いのである。被造物は神を憎むことができるが、神のほうはだからといって被造物を憎むことはできないからである。
この無力さのゆえに神は非人格的な「人格」なのである。神はわたしが愛するようにではなく、エメラルドが緑色であるように愛する。神は「われ愛す」なのだ。*8
これぞヴェーユの真骨頂というべき、純粋にして極端な神学である。彼女は新約聖書、特にヨハネの手紙等で語られた「神は愛です」*9 という言葉を、愚直に字義通りに受け取り、それをもとに愛の神の神学を展開したのだろう。神は愛である。ならば神は愛する以外には何もできないはずだ。ならば、神が与える出来事もまた、すべて愛の表現のはずだ。それに、神が愛であるならば、神にとって愛するという行為は、自由意志による選択というよりも、単に自らの本質から必然的に引き出された結果に過ぎない。神は愛することしか出来ない。愛する以外の選択肢を持たない。だから神が誰かを愛するのに一切理由はない。エメラルドがエメラルドであるがゆえに緑色であるように、神は神であるがゆえに愛するのだ。
ヴェーユのこの論述は、愛の対象を魚沼麻子に絞れば、そっくりそのまま「ラブレター」の魂に当てはまるだろう。神が愛であるならば、この魂は魚沼麻子への愛なのだ。だから、この魂が麻子を愛するのに理由はない。「エメラルドが緑色であるように」彼は麻子を愛するのである。そして当然、彼の愛は無尽蔵である。彼は麻子への愛そのものだから。彼は我々とは異なり、存在と行為の間に一切の障壁はなく、不可分である。彼が存在するということは、彼が麻子を愛するということなのである。
このような愛は我々の想像を遥かに超えたものであり、それゆえ一切の共感を拒む。しかし、このような超越的な何かに圧倒されるために、我々は創作物に向き合っているのではないか。だから、この魂に共感できないということは、決してこの作品の欠点ではない。むしろ、最大の美点にすらなりうるのだ。
以上述べたように、尾崎かおりは「ラブレター」において、神の愛にも比すべき壮絶にして強靭な愛を描きだしている。しかし恐るべきことに、尾崎は作中においてひたすらに、この愛が蹂躙され、無力であるさまを描き続けているのだ。
魂は、そして彼が受肉した子供は一心に麻子を愛した。麻子もそんな彼に心慰められる瞬間もあったが、次第に彼を重荷に感じ、ついにはこのように思い、彼を殺すに至る。
この部屋ごと
あの子が
消えてしまえば
いいのに…*10
マルティン・ハイデガーとハンナ・アーレントがアウグスティヌスに帰した言葉に「わたしは愛する。すなわち、あなたが存在することを欲する(Amo: volo ut sis)」というものがある。誰かが存在することを欲することが愛だとするならば、誰かが消えてほしいと欲することこそ、愛の完全なる否定となろう。それゆえ麻子は、我が子の無限の愛に対し、完全なる否定をもって応えたのである。
このような仕打ちを受けた後も、魂はさまざまな存在に生まれ変わって、麻子に愛をささやきつづける。子猫に、花に、雲に、歌に、彼女の髪に遊ぶ春風になって。それらは時折麻子の心を慰めはしたが、しかし彼女の孤独と罪悪感を抹消することは出来ない。これほどの愛をもってしても、たったひとりの人間を救うことは困難なのである。ならば、彼の愛は無駄なのか。彼の愛は、彼女に届くことはなかったのか。
そんなはずはない。
3.麻子と魂――虹について
物語の終盤。麻子は踏切で子供とすれ違う。罪悪感でいっぱいになった彼女は、踏切の前で立ち尽くす。電車が近づく。雨が降り出す。彼女が、一歩前に踏み出す。そのとき、かの魂が一粒の雨になり、彼女の耳に「泣かないで」*11 とささやく。電車が過ぎる。彼女は生きている。雨が止んでいる。空を見上げる。虹が、空に架かっていた。先に雨だった魂が、一身に太陽の光を浴びた姿。
この一連のシークエンスを始めて読んだ時の感動は、本当に筆舌に尽し難かった。漫画表現として完璧なのは言うまでもないが、最後の最後に虹を見たとき、途方もない救いを感じた。良くやってくれた、そう、ここは本当に、虹でなければならないんだと喝采を上げたくて仕方がなかった。だが、なぜそのように感じたのか、自分でもよく分からなかった。
この虹は何を意味するのか。それを解き明かすためには、まず同じ作者の『神様はうそをつく』における虹の表現について検討しなければならない。
本作の主人公なつるは、サッカー選手になることを夢見ている。しかし心無い新任コーチは、彼が3月生まれであることを知ってこのように言う。
あーやっぱり早生まれか
6年にしちゃ
体も小さいしな
スポーツでは
損なんだよ
早生まれは
かわいそうに*12
要するに、なつるは早生まれだからサッカー選手にはなれないと言っているのだ。この言葉は彼の中に、しこりのように、呪いのように残り続けた。それから彼は多くの体験をし、自分の無力さ、ふがいなさを痛感するに至った。すると彼は小雨が降る中で一心に走り、とある病院に行きつく。
その病院の上には、虹が架かっている。
そこには、なつるが慕っていた前のコーチである岡田が入院していた。なつるは岡田に、3月生まれのサッカー選手はいるかと尋ねる。3月生まれは不利じゃないかと尋ねる。すると岡田は笑って言った。
――なつる君
自分のことを本当に
信じてる人は
何にだって
なれるんだよ
本当だよ*13
以上、『神様はうそをつく』における虹について素描した。ここにおいて虹は、主人公の呪いが解かれる前触れとして描かれている。彼を縛り付けていた呪いが消え去り、自分には無限の可能性があることに気付くことを、虹は告げ知らせているのだ。
そして、『神様はうそをつく』と「ラブレター」の密接な関係を鑑みるに、後者における虹も同じ意味で用いられていると解釈しても、大きな逸脱ではないだろう。かの魂が魚沼麻子に見せた虹もまた、彼女が呪いから解かれることを告げ知らせているのではないか。
では、麻子の呪いとは何か。まず挙げられるのが罪悪感である。この虹のシークエンスにおける「普通に暮らしてる/自分に気づくと/罪悪感で/いっぱいになる」*14 というモノローグからも、そのことは明白であろう。
また彼女は、深い孤独に苛まれてもいた。そのことは、魂が子猫に生まれ変わった際の描写から伺える。彼女はその子猫が自分になつくのを見て、次のように感じる。
この世で
私のこと好きなの
あんただけかも…
…って
前にも
思ったこと
ある*15
この台詞から、彼女は自分を誰からも愛されない人間だと認識していることが分かる。その唯一の例外は我が子であった。しかし、その例外を、彼女は自分の手で抹消してしまったのである。それゆえ彼女は、自分は誰も愛することが出来ないし、誰からも愛されるべきではないと考えているのではないだろうか。
彼女が抱えている呪い、罪悪感と孤独とは、結局は愛する我が子を殺したというところに源泉を持つ。愛し、愛される術を学べなかった麻子は、自分を愛してくれていた我が子を殺してしまった。だからこれからも、彼女は愛し、愛される資格を持たない。このような思いが、麻子の胸に、呪いのように重くのしかかっているのではないだろうか。そして、そうだとするならば、この呪いを解くことが出来るのは一人しかいない。
ここでもう一度、虹について考えてみよう。古来より虹は、天と地とを架橋する道あるいは橋と解釈されてきた*16。虹とは、完全に断絶されているはずの二つのものを結び付けるものなのである。そしてこの虹、かの魂が描いた虹も、同様のものであるとわたしは解釈したい。この虹は天にいる魂と地にいる麻子とを繋ぐものであろう。そしてこの道、橋を通して、魂の愛が麻子に届けられるのである。そう、この虹は、今まで決して届くことのなかった、魂のただ一つのことば、「君を愛してる」というささやきが、ついに麻子に伝わったことを示してるのではないかと、わたしは思いたいのだ。この愛は、彼女にとって、呪いを解くものであり、そして赦しである。自分は愛し、愛され得るのだと、これから誰かを愛し、誰かに愛されてもいいのだと、高らかに宣言するものなのである。だから、ここは虹でなければならなかったのだ。だから魂は、最後に虹になったのだ。
4.トモヤ――名について
この物語は、時系列的には、この虹をもって締めくくられる。しかし物語上は、ある回想をもって幕が閉じられる。それはこのようなものだ。麻子の子供がスーパーで迷子になる。彼は母親を求めて泣く。すると麻子が腕を広げ、彼に向かって呼びかける。「トモヤ!!」 *17と。そしてトモヤは麻子に、「僕は/ママが/ママで/よかったなあ」*18 と伝える。
恥ずかしい話だが、わたしは最初、どうしてこの回想が物語の締めに用いられたのか理解できなかった。あの虹によって、これ以上ないほど見事に、物語は閉じられているではないだろうかと、そう思ってしまったのだ。しかし何度も読み返すにつれ、ようやくあることに気がついた。ここに来るまで作中では麻子の子供の名前が一切呼ばれず、明らかにされていない。最後の最後に、回想の中の彼女が呼ぶことによって初めて、彼の名が判明するのである。だから、最後に我々も、名について考えなければならない。
名という主題については多くの人間が書いているが、わたしにとって最も印象的であり、同時にこの作品と最も親和性が高いと思われるのが、寺山修司の「涙ぐむジル」である。名著『家出のすすめ』に収められたこの小品の中で、彼は次のように述べている。
(……)言葉というやつは、つまるところは自分の名をいうことではないか、というふうにも考えられるのです。
犬がおしっこで自分の行為を記録するように、人はさまざまの言葉で自分の名を記録しようとこころみる。要するに生きるということは一つの名の記録へのプロセスだ、と考えるなら、自分の名さえ、太くつよく彫りこめば、それで青年時代は終わりなのかもしれません。
人間は、一つの言葉、一つの名の記録のために、さすらいをつづけてゆく動物であり、それゆえドラマでもっとも美しいのは、人が自分の名を名乗るときではないか……、と私はふと考えました。*19
寺山はここで、生きることは即ち名を記録することであると述べている。そして、生きることが名を記録することだとするならば、愛するとは、たった一人の誰かに名を記録しようと苦闘することを指すのではないか。そして愛し合うとは、愛が通じるとは、相手に刻んだ自分の名が、相手によって呼ばれることを指すのではないか。だから、わたしは寺山の至言に一つだけ付け加えたい。ドラマでもっとも美しいのは、自分の名を名乗るときである。それは間違いない。しかし、相手が自分の名を呼ぶ瞬間もまた、それに劣らず美しいと、わたしは声を大にして言いたいのである。
以上を踏まえて先の回想を見てみたい。これは麻子とトモヤに起こった出来事であるが、同時に、彼女と彼の関係・遍歴を象徴的に表したものとも解釈できよう。トモヤの魂は生まれ、殺され、幾度も生まれ変わる間、ひたすらに麻子に愛をささやいてきた。それはすなわち、ひたすらに彼女に自分の名前を刻み込もうと苦闘してきたと言い換えることが出来よう。トモヤは、彼の魂は、いつも笑顔で前向きに彼女を愛していた。でも、それが届かないことを、彼は辛く、寂しく思っていたはずだ。回想の中、スーパーで母を探して泣くトモヤの姿は、必死に愛を伝えようとしていた魂の姿を表しているのではないか。彼は泣きながら、必死に麻子を求めた。麻子を探した。麻子を呼んだ。そしてついに、麻子がトモヤの名を呼ぶのである。彼の存在が、彼が記録しようとしていた自分の名が、ついに麻子によって呼ばれるのである。この瞬間こそ、かの虹に他ならないと思う。天と地とを繋ぐ虹が、二人を繋いだ瞬間に、魂の愛がようやく成就され、麻子の呪いがようやく解かれたのである。
こうして、物語は幕を閉じる。魂の愛がようやく通じ、麻子は、自分が愛し愛されていいことを知る。ここから彼と彼女の新しい物語が始まるのだろう。それは今までと同様に、苦難と涙に満ちた道かもしれない。それでもなお、神様は、君たちはなんにでもなれると言った。
尾崎かおりは自身のブログで、『神様はうそをつく』の主人公とヒロインに向けて、次のような言葉を贈った。この言葉はきっと、彼女の作品のすべての登場人物に贈られたものなのだろう。もちろん、あのふたりにも。
あの後ふたりがどうなるのかは分かりません。
あれは私の中では終わったばかりの今年の夏の話だから。
ここから先は未来しかないんだ。
でも、今いる場所がどんな所でも、どこへでも行けるし、何にでもなれる。
と、彼からすれば神様である私は愛を込めて言っておきたいです。
走れ走れ!*20
*1:シモーヌ・ヴェーユ『カイエ4』冨原眞弓訳、みすず書房、1992年、112頁。
*2:岡田斗司夫ゼミ11月20日号「『この世界の片隅に』誰もが評論を諦める高難易度作品を語るよ!!宮﨑駿あなたが川上量生にそれを言っちゃいます?」 - YouTube
*4:尾崎かおり「ラブレター」、『月刊アフタヌーン』講談社、2016年9月号、26頁
*6:尾崎かおり「ラブレター」、『月刊アフタヌーン』講談社、2016年9月号、8頁。
*7:尾崎かおり「ラブレター」、『月刊アフタヌーン』講談社、2016年9月号、44頁。
*8:シモーヌ・ヴェーユ『カイエ4』冨原眞弓訳、みすず書房、1992年、114頁。
*10:尾崎かおり「ラブレター」、『月刊アフタヌーン』講談社、2016年9月号、20-21頁。
*11:尾崎かおり「ラブレター」、『月刊アフタヌーン』講談社、2016年9月号、47頁。
*12:尾崎かおり『神様はうそをつく』講談社、2013年、48頁。
*13:尾崎かおり『神様はうそをつく』講談社、2013年、163頁。
*14:尾崎かおり「ラブレター」、『月刊アフタヌーン』講談社、2016年9月号、43-44頁。
*15:尾崎かおり「ラブレター」、『月刊アフタヌーン』講談社、2016年9月号、36頁。
*16:大林太良『銀河の道 虹の架け橋』小学館、1999年、679-689頁ほかを参照。
*17:尾崎かおり「ラブレター」、『月刊アフタヌーン』講談社、2016年9月号、53頁。
*18:尾崎かおり「ラブレター」、『月刊アフタヌーン』講談社、2016年9月号、55頁。