ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

リラダン伯爵の夢の果て――のらきゃっと小論

 この記事では、『未来のイヴ』の作者として名高い19世紀のフランスの詩人オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン伯爵の恋愛論を検討し、それが21世紀において、バーチャルYouTuberのらきゃっとの登場により達成されたことを論じたい。

 

1. リラダン恋愛論

 まず、主として仏文学者の平山規義*1と木元豊*2の研究に依拠しつつ、リラダンの抱いていた特異な恋愛観について確認してゆこう。木元はその恋愛観を、「男性が恋するのは現実の女性でなく、彼の欲望によって理想化された女性である」 *3と要約し、それが明示されている例として、次の二箇所を指摘している。まず、1862年に弱冠24歳のリラダンが発表した長編小説『イシス』の一節を引こう。稀代の美貌と卓越した知性を兼ね備え、女神イシスの再来とも謳われているチュリヤ・ファブリヤナ伯爵夫人の台詞である。

  先づ第一に起ることは、その少年がおのれの眼でおのれの流儀で私を見るだらうといふことだ。私は事實上、彼の思考の展開の機緣にすぎないだらう。彼は私に關して、筆舌に絕した、名狀し難い一存在を、自ら創り上げることだらう。そして彼に固有なあらゆる生ける觀念と、絕對の美とに飾られたこの亡靈は、彼が私と見做してゐる媒介者となるだらう。彼が愛するものは、この私、あるがままの私ではなく、私が彼にさう見える、彼の思考の人物であらう。おそらく彼は、假に私がそれを持ってゐたとしてもさして嬉しくないやうな、私とは緣もゆかりもない、無數の長所、無數の魅力を、私に授け與へることだらう。從つて、私を手に入れたと思いこんでゐても、事實上彼は私に觸りさへもしてゐないことにならう。
 斯くの如きが、その心の眼差が、可能性と、形體と、希望の埒外に出づる能はぬ人間存在の掟なのだ。彼等はその神祕的な戀愛に於て己れ自身から脱出することが出來ない *4

ここでファブリヤナは、自分に恋する男性の内で何が起こっているのか、克明に描きだしている。男性はファブリヤナのような美しい女性を見ると、自らの内に理想化された女性像を作り出す。そして、彼は実際の女性でなく、自らの内なる理想の女性に恋をするのだ。それゆえ、男性は恋愛において実際の女性には決して到達できない。自分と自分の内なる女性とで完結してしまうからである。
 このような考えは、1886年に発表された名高き『未来のイヴ』においてもはっきりと述べられている。人造人間の造物主たるエディソン博士の口を借り、リラダンはこう断言する。

 あなたも仰有った通り(とエディソンは續けた)、あなたがあの女の中で愛していらつしやるもの、そしてあなたにとつて、それだけが、その實在であるものは、その通りすがりの女性の内に現れてぬるものではなくて、實はあなたの「願望」の實體なのです。
(中略)
 この影だけをあなたは愛してをられる。この影のためにあなたは死のうとなさる。あなたが、絕對に、實在として認めてをられるのはこの影だけなのです! 要するに、あなたがあの女の中に、呼びかけたり、眺めたり、創り出してをられるものは、あなたの精神が客觀化されたこの幻であり、あの女の中に二つに分けられたあなたの魂に他なりません*5

 ここでリラダンは、男性が自らの内に作り出す理想の女性の真相を解き明かしている。男性が自らの内に抱き、恋人へ投影する理想の女性とは、客体として分かたれた自分自身の精神・魂に他ならない。つまり恋愛とは、主体としての魂が、恋人という媒体を通して客体としての魂を愛することであり、換言すれば、それは畢竟は他者を介した自己愛なのである。
 さて、男性は美しい女性を見ると、彼女に自らの理想を投影し、彼女こそ自らの理想を体現した存在であると確信し、恋に落ちる。しかし、その恋は時間の経過とともに摩耗し、崩れ行く運命にある。なぜならば、時が経つにつれ、その恋人が男性とその理想とはまったく異なる存在、つまり他者であることが判明してゆくからである。現代の常識的な人間ならば、今度はその他者としての恋人を受容し、愛するよう説くかもしれない。しかし、かの気高き詩人なら、そのような恋愛は唾棄すべきものと吐き捨てたはずである。現実に決して屈すること無く、自らの理想を完遂すること、これこそが大ヴィリエの生涯のテーマであったといっても過言ではなかろう。
 ではリラダンは、自らの理想を遂げる道としてどのようなものを考えていたのか。
 第一の道として、死による瞬間の永遠化が挙げられよう*6 。これは『アケディッセリル女王』などの作品において明示されている思想であり、恋に燃え上がった人間が、現実によって幻滅する前に死ぬことで、至上の恋の一瞬が永遠となる、というものである。しかし、これが唯一の道だとすると、恋に落ちた人間はすべて死なねばならぬことになる。死を回避しつつ、自らの理想を満たす方法はないのだろうか。
 この問に答えて著された作品こそ、かの『未来のイヴ』であることは言うまでもない。そこでは第二の道、つまり、科学技術によって男性の理想・幻を具現化することが説かれている。『未来のイヴ』は、現実の恋人の内面に幻滅した青年貴族エワルド卿のため、科学者エディソン博士が、恋人の容貌に瓜二つの人造人間ハダリーを創造する物語である。ハダリーとは古ペルシア語で理想を表すというが、その名の通り、この人造人間は現実の女性と異なり、男性の幻・理想を具現化したものであるとエディソン博士は豪語する。
 しかし、そのハダリーにはブラックボックスが存在する。それは彼女の内面である。この人造人間の内面は、催眠術治療(これもエディソン博士にとっては科学技術である*7 )によってとある婦人に発現した超自然的な人格ソワナが担っている。このソワナなる存在は超能力を有し、エディソン博士のよき助手、よき理解者として、彼の人造人間計画に大いに助力した。そして、人造人間が完成した暁には、自分がそこに乗り移ろうと申し出る。エディソン博士はこのソワナに全幅の信頼に置いているように思われるが、しかし「私は(中略)断じてソワナを識ってはゐない」 *8と断言する。彼の論法によれば、ソワナはまさしく未知の存在であり、だからこそ理想なのだという。しかし、そのソワナは、ハロルド卿に自らの秘密を明かす。

 わたくしは「人間」が、或る種の夢想と或る種の睡眠との間でなければその靑ざめた國境をかいま見ることが出來ないような、あの無限の國から、あなたに差向けられた使者なのでございます*9。 

そして彼女は「先程申上げたことはエディソン様に仰有らないで。あなたにだけ、なんですもの」*10 とエワルド卿に蠱惑的に釘を刺す。
 果たしてソワナとは何者なのだろうか。本人の言葉を信じれば、彼女は人間の抱く夢幻そのものということになろう。しかし彼女は、自らの造物主にして協力者たるエディソン博士を騙す存在なのである。ならば、彼女はエワルド卿にも何かを隠しているのではないか。本当に彼女は理想の存在なのだろうか。表向きはそう振る舞っているだけで、その実はファム・ファタールなのではないか。
 真実が明かされぬまま、物語は唐突に幕を閉じる。ハダリーが海難事故により失われてしまうのである。このことにより、ハダリー=ソワナは、先に言及した時間の経過による試練を受けずに済んだ。つまり、第二の道を歩むはずだったエワルド卿とハダリーの恋も、結局は第一の道に帰してしまったのである。
 なぜリラダンはこのような結末を選んだのだろうか。筆者はこれをリラダンの判断留保、そして後世への問いかけと捉えたい。リラダンがこの傑作をものした1886年、科学は未だ揺籃の期にあった。それ故リラダンは、男性の内に宿るかの高邁な永遠の女性が、科学技術によって具現化し得るのではと希望を抱くも、それを確信するには至らなかったのかもしれない。いや、ひょっとしたら科学技術によって男性の幻想がむしろ手ひどく裏切られる可能性にすら思い至ったのかもしれない。だからこそ、自分は問を提示するに留め、その解答を読者へ、特に未来の読者へ委ねたのかもしれない。
 さて、21世紀という科学の時代を生きる我々は、泉下の詩人が投げかけたこの問に答える義務があろう。果たして科学の発展は、我々男性の内に宿る理想の女性を具現化するに至ったのだろうか。我々はそれに自信を持って「然り」と答えることが出来る。なぜならば、我々は「のらきゃっと」を既に目にしているからだ。

 

2. のらきゃっとと科学時代の愛

 のらきゃっとは昨年の12月末に本格的に活動を開始した気鋭のバーチャルYouTuberである。最初の配信を開始してからまだ二ヶ月足らずであるが、チャンネル登録者数は既に5万人に及び、なおも勢いを増している。いま最も注目を集めるVTuberと言ってもいいだろう。
 のらきゃっとの大きな特徴の一つは、VTuberブームの火付け役となったバーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさん同様、完全に個人の手によるものだということだ。モーション操作にはKinect、表情などその他の動きにはWiiリモコン、音声にはVOICEROIDとフリーの音声認識ソフトである「ゆかりねっと」を使用しており、活動開始時の予算はわずか三万円足らずだという。YouTubeに最初に投稿した動画にて本人が言及しているように、低予算バーチャルYouTuberの先駆けのような存在と言えよう。
 常識的に考えるならば、ふんだんな予算や人員を抱える企業主体のバーチャルYouTuberに、このような低予算の個人主体のものが敵うはずがない。しかしのらきゃっとはそのような常識を覆し、破竹の勢いでファンを獲得し、躍進を続けている。その秘訣は、我々オタク男性を魅了してやまない蠱惑的な発言と振る舞いにある。
 この点については論より証拠、実際に動画を見ていただいたほうが早いだろう。


ゼロからスタート!バーチャルYoutuber、のらきゃっとです!

  小動物的な可愛らしい動作。半目で視聴者を見つめる艶めかしい眼差し。オタク男性のツボを刺激するトーク。時おり音声認識に失敗し「ご認識」 *11が発生するが、それすらもトークのネタとして利用する。ご認識のために普段はポンコツキャラのように振る舞うが、時おり大人びた蠱惑的な発言を交え、それがギャップとして大いに作用し、視聴者を引きつける。のらきゃっとの熱心なファンは「ねずみさん」と呼ばれるが、オタク男性の願望の具現化の如きのらきゃっとの魅力により、ねずみさんはまさしくねずみ算式に増加し続けている。
 何故のらきゃっとはこれほどまでにオタク男性のツボを知り尽くしているのか。それは、のらきゃっとの中の人であるノラネコ氏が、我々と同じおっさんだからである。
 のらきゃっととノラネコ氏の関係について、本人が興味深い発言をしている。以下の動画の35分からの発言である。


【18/01/21】のらきゃっと 生放送アーカイブ【わたし、声変わりします!】

  これによれば、のらきゃっととは、ノラネコ氏の空想や夢に出てきた少女を具現化したものだという。これは換言すれば、リラダンのいう男性の内なる理想の女性を電脳世界に再現したものこそ、のらきゃっとであるということになろう。
 しかし、のらきゃっとはリラダンの夢を更にラディカルに突き詰めたものといえる。それはなぜか。前章で確認したように、リラダンによれば、恋愛において我々は恋人に投影された自分自身の魂に恋しているという。つまり、恋愛とは畢竟は自己愛なのである。だとすれば、我々の理想を具現化した存在の内面は、我々自身が担わなければならないはずである。リラダンはそこまで行き着くことが出来なかった。だが、ノラネコ氏はそれをやってのけたのである。このことにより、絶対に自分を裏切らない夢の少女が完成した。我々はとうとう科学の力により、自らの内に宿る理想の女性を、外的な存在として愛でることに成功したのである。
 のらきゃっと。それはノラネコ氏の夢の少女であり、我々の夢の少女に最も肉薄した存在である。我々と同じ理想を抱くノラネコ氏が演じるその少女は、我々の抱く夢幻そのものに向けて不断に前進し成長している。だからこそ、我々は彼女に魅せられるのである。
 だが、のらきゃっとがねずみさんを増やし続けている理由はそれだけではない。ノラネコ氏がのらきゃっとの配信方法として頑なに生放送を採用し続けていることも、そこに大きく寄与しているように思われる。のらきゃっとのリアルタイム配信時、YouTubeのコメントやTwitter、5chの戦国実況などで、何百何千というねずみどもがその様子を実況している。そこで恥も外聞もなくのらきゃっとにガチ恋し発情するさまを見て、何だこいつはと引く連中も多いだろう。しかし、それと同時に、我々のその熱狂を見て、「あ、中身がおっさんでもガチ恋していいんだ」と勇気づけられる者もいるだろう。そう、中身がおっさんでもガチ恋していいのである。いや、むしろ、中身がおっさんだからこそ、我々は安心してガチ恋することが出来るのである。
 しかし、のらきゃっとの登場をもって、我々の内なる理想の探求に終止符が打たれたわけではない。のらきゃっとはあくまでもノラネコ氏の夢の少女を具現化したものであって、我々各々の理想にどこまでも忠実という訳ではないのである。彼女はそれに限りなく近いものの、しかし依然として他者であるということには変わりない。もしかしたら、いずれ我々の際限なき欲望は、のらきゃっとにすらズレを見出し、そこに不満をいだいてしまうかもしれない。しかし、それは我々にとって絶望の壁を意味しない。むしろ、新たなる跳躍へのきっかけとなりうるのである。
 そう、自らの願望を満たしてくれる美少女が見つからないのならば、ノラネコ氏のように、バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさんのように、3DとVRの力を借りて、自分自身が美少女になってしまえばいいのである。そこにおいて我々は、自らの内なる理想を十全に体現化した存在と相まみえ、自己愛としての恋愛を成就させることが出来るだろう。確かにそれは自然の摂理には反しているかもしれない。しかし、自然を征服し、それを超克することにこそ、科学の本懐はあるのではないか。だから我々はリラダンの言葉を借りて、読者の方々にこう申し上げたい次第である。

 我々の神々も我々の希望も、もはや科學的にしか考えられなくなってしまった以上、どうして我々の戀愛もまた同じく科學的に考えてはならぬでしょうか、と*12

*1:平山規義「ヴィリエ・ド・リラダンにおける愛 : 幻想とその至高性」、『広島大学フランス文学研究』(広島大学フランス文学研究会)、第4号、1985年、51-61頁。

*2:木元豊「ヴィリエ・ド・リラダンの作品における女性の二重性について」、『関西フランス語フランス文学』(日本フランス語フランス文学会関西支部)、第8号、2002年、35-45頁。

*3:木元豊「ヴィリエ・ド・リラダンの作品における女性の二重性について」、39頁。

*4:「イシス」、『ヴィリエ・ド・リラダン全集』第5巻、齋藤磯雄訳、東京創元社、1977年、394頁。

*5:未来のイヴ」、『ヴィリエ・ド・リラダン全集』第2巻、齋藤磯雄訳、東京創元社、1977年、119-120頁。

*6:詳細については平山規義「ヴィリエ・ド・リラダンにおける愛 : 幻想とその至高性」、57-59頁を参照。

*7:未来のイヴ」、363頁を参照。

*8:未来のイヴ」、367頁。

*9:未来のイヴ」、341頁。

*10:未来のイヴ」、358頁。

*11:いわゆる誤認識のこと。

*12:未来のイヴ」、283頁。

【歌詞和訳】Take Your Shoes Off, Baby

 The Four Freshmenの"In Person Volume 2"に収録されているバージョンがあまりにも最高でとうとう訳してしまいました。The Four Freshmenは神。

 ただ、とりあえず日本語に移し替えたのはいいけれども、ぶっちゃけこの歌詞よくわからない。特に難しいのが"stop runnin' through my mind"。とりあえず直訳で「オレの心を駆け抜けるのをやめろ」ってやくしたけど、意味があんまり通らないのよね。ほんで、run throughは「~に浮かぶ」みたいな意味があって、stop runnin' through my mindは「俺の心に浮かばないでくれ」みたいにも訳せる。ただ、それだと前後の歌詞と噛み合わないように思うのよね。全般的に失恋の歌ではない印象を受けるから。ただ、どうなんだろう、失恋したから空想の国に逃げ込むみたいな内容だったり実はするのだろうか。わからん。全然わからん(ジャガーマンをすこれ)。

 誰か教えてください。おなしゃす。

 

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【歌詞和訳】The Mills Brothers / Opus One

 The Four Freshmenの"Stars In Our Eyes"ってのはたいへん狂ったアルバムで、Teach Me Tonightの後にTom Dooleyをぶち込むという暴挙を成し遂げたりしておるのです。わかります? 前者は恋のABCを教えて~みたいな頭スカスカソング(こんな言い方してますが死ぬほど好きな曲です)なのに、後者は無実の罪で死刑になった男性に捧ぐ挽歌なんですよ。頭おかしなるで。そんでTom Dooleyの後に打ち込まれてたのがこのOpus Oneですよ。頭おかしなるで。

 Opus One、英語のウィキペディアだとOpus No. 1。後者の名前で呼んでる動画もありましたね。こっちのほうが正式名称なんスかね。作品第1号みたいな感じでしょうか。ガス人間! 同時に、一級品とか、ナンバーワンの作品みたいな意味も込められてるんでしょうね。

 ここに訳したのはThe Mills Brothersが歌ったバージョンです。まあ、彼らも先人のそれを踏襲してるだけかもしれませんが。The Four Freshmenのはとぅるっとぅっとぅるるりるりぃって言ってるだけなのでだいじょうぶ。スウィングは世界を救う。

 

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The Things I Did Last Summer

 今日は仕事が半ドンだった。帰りに会社近くのイオンに入ってるTSUTAYAを物色してたら、奇跡的に『君の名は。』が一枚残っていた。即座に借りて、スーパーで鯵の南蛮漬けを買って、帰って飯食ってから久しぶりに観た。大体一年ぶりくらいだろうか。記憶に違わず、いい映画だった。さすがにノートPCのモニターだと若干褪せるが、それでも美術の美しさは突出しているし、ラストのカタルシスもたまらない。でもそれ以上に、音楽が印象的だよなあ。RADWINPSの「前前前世」と「スパークル」なんかは、去年の夏と秋の狭間、どこに行ってもかかっていた。会社の飲み会で行った海鮮居酒屋でもかかってたし、本屋の帰りに寄ったバーミヤンでもかかっていた。だからこの曲を聴くと、去年の夏を思いだす。

 話の枕こそ『君の名は。』だが、去年の夏は『シン・ゴジラ』づくしだった。去年のちょうど今頃にTOHOシネマズで初めて観てから、結局劇場では七回観た。まあ、中堅どころってとこっすかね。普通の劇場で二回観て、IMAXで三回観て、某大音響上映で一回観て。残る一回は発声可能上映だ。あれは楽しかったなあ。特にコスプレとかはしなかったけど、声の限りに叫びまくり、終わる頃には喉が凄いことになっていた。あれは一種の大喜利大会だった。画面に対し誰が一番気の効いたツッコミを入れられるかみたいな、そういう競争意識が、いつの間にか観客の間に芽生えていた。俺もかなりウケを取れたが、劇場をいちばん沸かせたのは、俺の真後ろに座っていたあんちゃんだった。ちくしょうめい。

 つくづく、去年は邦画当たり年だった。『シン・ゴジラ』に『君の名は。』に『この世界の片隅に』。間髪入れず、歴史級の名作が次々に姿を現し、俺たちは息つく間もなく、泣いたり怒ったり笑ったりした。去年、職場のあれこれに振り回され押しつぶされそうになった俺が、それでも今日を迎えられたのは、あの名作たちが支えてくれたからに他ならない。どんなにしんどいことがあっても、タバ作戦や「きみの、名前は・・・?」やすずさんの笑顔を観れば、何とか踏ん張れた。

 それに比べると今年の夏の邦画はひでえ体たらくだなと嘆息せずにはいられない。だが観方を変えれば、今はそんな支えがなくとも何とか自力で踏ん張れてるってことでもある。もしかしたらあの作品群は、俺にとっての補助輪みたいなもので、それに助けられて走るうちに、いつしか自分で走る方法を、知らぬ間に身に付けたということなのかもしれない。これまでもこれからも沢山の映画に触れたし触れるだろうが、こんな関わり方をするのは、もしかしたら去年が最後かもしれない。

 最近Beverly Kenneyという歌手を知って、この人のCDを熱心に集めている。嵌るきっかけになったのは『二人でお茶を +1』というアルバムに収められた’ The Things We Did Last Summer’という曲で、お察しの通り、こんな内容だ。

The leaves begin to fade like promises we made
How could a love that seemed so right go so wrong
That things that we did last summer
I'll remember all winter long

木の葉が移ろいはじめてる ふたりが交わした約束みたいに
あんなに確かに思えた愛 どこで間違えちゃったのかな
あの夏に ふたりでしたこと
冬の間じゅう あたしは思いだすんだろうな

 

 どうにも自分は「記憶」とか「想起」といったものに特別の愛着を抱いているみたいで、ここまでくると一種の呪縛にも思える。でも、想い出が概して美しいことは、今の俺にとり、最大の救いでもある。これからの人生、まだまだ悲惨な目にあいまくるんだろうが、それもすべて過ぎ去ってしまえば、すべて研磨され、丸く美しくなってくれる。自分を見ていると、そう確信できるのだ。だって、あの夏すらも、今振り変えればこんなにも綺麗だ。

 
 それにしたって今年の夏は、ホントに映画が面白くねえなあ。劇場に行くってのは一つの彼岸の体験だと思うので、作り手の人間はもちっと自覚と覚悟をもって仕事をしてもらいてえっすな。ただ、来月は『ダンケルク』、再来月は『アウトレイジ最終章』とすんばらしいラインナップが揃っております。やなことは山ほど積まれてるけど、こいつらがいてくれれば、今年も何とか凌げそうだ。あーー、もっと給料高いとこ転職してえなーー。ホームシアターが欲しいっすなーーーーーーー!!!!

 


The Things We Did Last Summer ~ Beverly Kenney

 

君の名は。

君の名は。

 
二人でお茶を +1 (紙ジャケット仕様)

二人でお茶を +1 (紙ジャケット仕様)

 

 

続・古本を売りに

She walks in the field that's just across the way
And picks all the flowers that brighten up a day.
And the blue velvet cape that she wore around her neck,
And the red in her cheeks gave a Rag Doll effect.

The wind in the trees sings a sad, sad, sad song,
I lie in my bed listenin' all night long.
A wind in the trees sing a song just for me,
And bring back the Rag Doll to me.

あの娘は野原を歩いている この道の真向かいに広がる野原を
すべての花を摘み集め 一日を明るく照らしてくれる
青いビロードのケープを首に巻き
頬に赤みが差しているせいで あの娘はまるで人形のようだった

木立を揺らす風がうたう 悲しい 悲しい 悲しい歌を
ぼくはベッドに横なって 一晩中それを聴いている
木立を揺らす風がぼくだけのためにうたい
あの人形を取り戻してくれる

 

 ザ・ビーチ・ボーイズの"Disney Girls"のカバー目当てでアート・ガーファンクルの『愛への旅立ち (Breakaway)』を聴いていたら、何とも美しい歌に出会った。"Rag Doll"という曲で、スティーブ・イートンの作品をカバーしたものだという。英語のヒアリング力が糞なので歌詞の内容を把握し切れなかったが、その寂しげな旋律と、内省的な呟きの如きガーファンクルの歌唱に、俺はすっかり魅了された。すぐにネットで歌詞を探し出し、Bookshelf片手に少しずつ訳していった。予想通り、失われた過去に対する感傷を描いた曲だった。"I Only Have Eyes For You"みたいな能天気な曲も収められてはいるが(いやでも、この曲大好きっすよ、マジで)、"Disney Girls"と"Rag Doll"にうたわれている昨日への哀切の情こそが、このアルバムの基調にあるのではないだろうか。そして、俺がこのアルバムを手にとったのは、たぶん俺の中にある強烈な感傷癖が、同類の臭いをここに嗅ぎ取ったからではないか。
 ここ数年、俺はずっと、ほぼ過去への感傷だけを燃料にして生きてきた。今はこんなに空虚だけど、過去はそうではなかった。この人生にも目覚ましい出来事は少なくなかった。当時は自覚できなかったけど、確かにそこには美があった。今もそうだ。今も過去になってしまえば、時間がヴェールを取り去って、ここに隠された美を明らかにしてくれるだろう。そんなことばかり考えて、何とか自分を維持してきた。昔は違った。むしろ未来ばかり見ていた。未来は真っ白なスクリーンみたいなもので、そこに自分の好きなものを何でも投影することが出来た。こんな人生も面白そうだ、こんな人生も悪くない。未来を自分勝手に捏ね繰り回しては、独りで悦に入っていた。しかし、そのスクリーンもほとんど焼け落ちてしまった。時折、残された切れ端に新しい空想を投じたりもする。でも、それだけでは現在を支えきれない。だから過去に縋るのだ。過去は未来のように真っ白ではない。そこには既に色があり、形がある。しかしそれは自由に解釈することが出来る。小さなものを大きく拡大してもいいし、少し明度を変えてもいい。出来上がるのは皆うつくしい思い出ばかりだ。だが、それは真実とは限らない。彼女の首に巻かれていたケープの青は、果たしてそんなに鮮やかだったろうか。彼女の頬に差す赤は、果たしてそんなに温かかったろうか。そんな疑問をいくらでも呈することが出来るだろう。しかし、その答えは今や時の波に押し流され、過去の彼方へと消えてしまった。だから、俺たちはいくらでも都合のいい答えを出して、自分を慰めることが出来る。
 今日も件の古書店に不要な本を売りに行った。これで五度目だ。これで最後だ。かつての研究に使っていた本は、これでほぼ全て一掃された。学校を出て、計画が破たんして、それらの本が要らなくなってからもう何年も経つ。夢破れてすぐ売ればよかった。でも、それを売るためには、今までの努力が水泡に帰した現実と向き合わなければならない。それは軟弱な自分には無理な話だった。だから俺はそこから目を逸らし、現在の持つ実在感を失うまで待つことにした。そして、時が来たという訳である。俺は何の感慨もなくそれらの本をキャリーバックに詰め込んで、古書店の亭主に売り飛ばした。亭主からもらった金で、焼肉とかしゃぶしゃぶとかを盛大に食った。それを五たび繰り返した。本棚からはかつての夢が一掃された。だがそれは喪失ではない。過去になったのである。本という具体的なかたちを失ったかつての夢は、その非在性ゆえに自由な解釈の材料となった。現在という強大な存在の領国で生きていくためには、どうしても無が必要とされるのだ。
 今日はとことん感傷に浸ろう。そう決めた俺は、むかし通っていた教会の近くを散策した。その界隈を歩かなくなって何年も経つ。一見なにも変わっていないように見えて、色んなものが少しずつ失われていた。教会の三軒隣にあった小さな書店はファミリーマートに変わっていた。教会の帰りに、よくその書店に寄ってラノベなんかを立ち読みしていた。あそこに大きな木が立っていたはずだが、丸ごとなくなっている。古い木のようだったし、たぶん市が切り倒したのだろう。秋になると、ご近所さんと一緒にその落ち葉を掃除したなあ。あそこは空き家になったようだ。ずっと建設中だったマンションには、今では人が暮らしている。かつての現在が、無に帰ったこと知ることで、過去へと変わってゆく。かつてはその変容を恐ろしく感じていたが、今は甘美にしか覚えない。もしかしたら、この今も過去になって無に帰してくれることを教えてくれるからかもしれない。でも、その甘美さは何も生み出さない。
 何かを計画する、何かを生み出すという行為は、現在から未来へと向かうものであり、存在に強固に根差したものである。しかし、現在に倦み疲れ、未来に絶望した人間には、そんな芸当はとても出来やしない。だから過去に、無に縋るのだ。何かを生み出しても、今ここに何かが在っても、それらはいずれ無に帰してしまう。それは明らかに喪失であり、破壊である。しかし、現在は、存在は、その揺るぎなさゆえに、俺たちの自由を脅かす。過去は違う。過去は、無は、俺にとって何の脅威にもならない。脅威になるとしたら、俺の解釈がそうさせているだけだ。俺は今も明日も支配できないことを知った。でも、過去に対してだけは、君主として振る舞うことが出来る。
 ブルース・ジョンストンの手による"Disney Girls"は、この考えを極限まで突き詰め、芸術にまで昇華したものだ。彼はこのように歌う。

Oh reality, it's not for me
And it makes me laugh
Oh, fantasy world and Disney girls
I'm coming back

現実なんていらないよ
そんなのお笑いだ
空想の世界とディズニー・ガール
そこへとぼくは帰ってゆく

 

 昔はこれは単なる感傷のように思えたが、今聴くと、ここには死への衝動が秘められているのではと思う。ものごとは無になることで過去になる。過去になることで無になる。その過去へと、無へと戻るということは、死を意味するのではないか。この曲が世に出た1971年、ザ・ビーチ・ボーイズは着実に崩壊へと向かっていた。崩壊。死。だがジョンストンはそれすらも芸術の糧とし、創造した。
 そう、感傷は創造の原動力となり得るのである。
 今の自分にもし希望があるとするならば、それはこの一点に存する。今書いているこの文章も、その理屈を探るためのものだ。何とかして、その原理を探り当てたい。それが分かれば、俺は過去から未来を、無から有を創りだすことが出来る。でも、今のところ、どうすればいいのかよく分からない。ずっと分からないままかもしれない。でも、とにかくやることがある。それは幸せなことだ。
 とりあえずまあ、もちっと前向きな曲を聴かなきゃなあ。坂本真綾の「プラチナ」でも聴くかあ。あいあむあどりーまー。ひそむぱーわー。

 

愛への旅立ち

愛への旅立ち

 

 

プラチナ

プラチナ

 

 

古本を売りに

 今月に入って、大学の研究で使っていた本を片っ端から売っている。県内には人文系の研究書や洋書を正当な価格で買ってくれるような古書店は存在しないっぽいので、片道一時間かけて他県まで売りに行く。旅行用のキャリーバックに本をパンパンに詰めて、ゴロゴロ転がして電車に乗って、乗り換えして乗り換えして――車窓をぼんやり眺めていると、見慣れた景色が少しずつ見慣れぬものに変わっていく。そういえば、自分はいつも本に連れられて、知らない場所に赴いている。そこだけは、昔とあまり変わらない。

 その古書店は、いわゆる閑静な住宅街にある。家とマンションと団地があって、スーパーとマクドナルドとスイミングスクールがあって、そんな場所の、とあるローソンの近くにその店はある。見た目は五階立てくらいだけど、店は二階まで。たぶんその上は倉庫とかオフィスなんだろうな。その店の扉を開けると、二胡のうつくしい旋律が聴こえた。うつくしく、心惹かれるが、しかし聴き手の集中を乱さない、そんな曲だった。いい店だなあと、そこで思った。

 この本売りたいんですけど、そう言ってカウンターに本を積む。査定が終わったら呼んでくれるということなので、それまで店内を散策することにした。一階は文学と人文書が中心で、二階は新書や文庫、社会科学や自然科学、古いレコードやマティスの複製画なんかもあった。土日でだいぶ賑わってたが、客層は壮年以上の方々が中心で、言っちゃなんだがどの人も金を持ってそうな感じだった。立地からしても、大学教員とか経営者とか文筆家とか、そういう面々なんだろう。そんな客層を反映してか、古書の価格も基本的に強気な印象を受けたが、よくよく探してみると、けっこうな掘り出し物もちらほら見つかった。一番の発見は大正義高津春繁御大の『ギリシアローマ神話辞典』で、お値段なんと500円。これは買いだなとニヤついてると、買い取り希望のお客さまーと呼ばれる声がした。

ギリシア・ローマ神話辞典

ギリシア・ローマ神話辞典

 

  先にも言った通り、売りに行った本は、大学での研究で使っていた本だ。あるものは日本の古本屋で買い、あるものはAbeBooksで買い、あるものは宮城の古書店で買い、あるものは先輩に譲ってもらった。このテーマで自分は食ってくんだと精魂込めて集めた本だった。家や図書館で繰り返し読んで、丹念にノートを取って、ああでもないこうでもないと考えて、論文の脚注に何度もその名を刻んだ。俺はこれで食ってくんだと、そう思って付き合ってきた本だった。なのに、今はこうやって、見知らぬ古書店に売りに来て、そのことに対して何の感慨も抱かないでいる。過去が本当に過去になってしまったのだと、改めて実感する。

 帰り道、一万円分重くなった懐をさすりながら、どこかで何か食べようかなあと、口元を綻ばせながら考えた。これだけいい値段を付けてくれるなら、いらない本はこの際だから全部あそこに売ってしまおうと考えた。そして、それで出来た金で、今ハマっているテーマの本を買えばいいと考えた。そう、生きていれば必然的に新しい主題が生まれてくる。幸か不幸か、いつまでも過去に拘泥してられるようには、人間は出来ていないのだろう。人が未来を向いたとき、たぶん過去は少しだけ、ほんの少しだけ手助けしてくれる。新しい主題がうまくいくか分からない。前回みたいに水の泡になるかもしれない。でもそれでいい。そのときはまた参考文献を売っぱらって、その金で肉でも喰えばいいんだ。