イングマール・ベルイマン『秋のソナタ』――瞬間と持続
「ぼく、おとうさんのこと、すごく好きなんだ」
「うへぇ!」
「……なに、うへぇって」
「いやなんとなく」
「好きって絶望だよね」
映画は、一人の男の独白から始まる。男は牧師で、妻のエーヴァは教区新聞の記者。彼は、一目でエーヴァのことを好きになった。だが、結婚を申し込まれた彼女は、一度、それを受けることを渋る。自分は愛する術を知らないからと。無事に結婚し、仲睦まじく暮らす今でも、エーヴァは、ありのままの自分が愛されることはないと思い続けている。だから、彼はいつの日か、ありのままの彼女を愛していると、そう伝えたいと夢見ている。でも、それはどうしても言葉になってくれない。そう言って、男は寂しそうに笑う。
ありのままの自分が愛されることはない。この呪いをエーヴァにかけたのは、母のシャルロッテだ。コンサート・ピアニストを生業とする彼女は、ひたすら仕事に没頭し、家庭のことを一切顧みなかった。それに加え、エーヴァが幼い頃、彼女は別の男と駆け落ちしてしまった。最後には戻っては来たのだが、自分は母に捨てられたという思いが、エーヴァの心に深く刻まれたであろうことは間違いない。
二人はもう、七年も顔を合わせていない。だが、シャルロッテの現在の彼氏が亡くなったことを機に、エーヴァは母に手紙を出す。自分の許に来ないかと。エーヴァは、過去のことをすべて水に流し、母と和解したく思っていた。しかし実際は、二人の間に、架橋できぬ隔たりがあることを、改めて思い知らされてしまう。
この二人が全く異なる志向性を有することを、その職業が物語っているように自分は感じる。母のシャルロッテはコンサート・ピアニストである。彼女が舞台の上で行う演奏は、完全に一回限りの、再現不可能なものである。その指が奏でる音は、その瞬間に消えてゆく。彼女は、自分の指先に降りる一瞬一瞬の霊感を逃さぬよう、それを無心で追いかけ続ける。彼女は瞬間に、刹那に魅了された人間なのである。
他方、娘のエーヴァは文筆家である。確かに、物を書くという行為にも霊感は不可欠だ。しかし、紙上にペンで記した文字は、音色のように失われることはない。時に立ち止まり、調べ直し、吟味し直し、推敲しながら、何日も、何か月も、何年もかけて、彼女は自分の作品を完成させる。その意味でエーヴァは、瞬間ではなく、むしろ持続を希求する人間であると言えるのではないか。
瞬間と持続。二人の真逆の本質が決定的なディスコミュニケーションを産みだしていることを、ベルイマンは、何気ないシーンの中で巧みに描きだしている。何気ない会話や、親子でのピアノのレッスンの場面で、娘のエーヴァは縋るように母の顔を見つめている。しかし母のシャルロッテは、娘の眼差しに気付くことなく、虚空を、どこか別の場所に目を向け、自分を魅了する何かを追い求める。映画の前半は、このような一方通行のすれ違いが幾度も描かれる。そして、決定的な破たんが生じる。
夜、眠れない二人は些細な口論を始め、それがいつしか、凄まじい衝突に発展する。エーヴァは葡萄酒を呷りながら、半狂乱になって自分の苦しみを叫ぶ。母の不在が、母の裏切りが、母の身勝手さが、どれだけ自分を追い詰めたのか、凄まじい形相で捲し立て、母に呪いの言葉を投げかける。娘の告白に圧倒されたシャルロッテは、自分もまた、親に愛されない子供であったことを漏らす。自分は生きるすべを知らない。本当の意味では、まだ生まれてないかもしれない。弱弱しい声で、そう吐露する。
母と娘。この関係性が孕む地獄を、エーヴァは次のように表現している。
母と娘……
恐ろしい関係だわ
互いに いがみ合い 憎しみ合って――
傷つけ合う
すべてのことが愛を理由になされる
母の傷は――
娘にも受け継がれる。
母の失望を償うのは娘。
母の不幸は娘の不幸になる。
へその緒が 切れていなかったように
ママ
教えて
娘の不幸は母の喜び?
ママ
私を悲しませて こっそり楽しんでたの?
先に、二人が真逆の本質を有し、そのことが対立を産みだしていたことを指摘した。しかしここに来て、二人には決定的に共通する点も存することが明らかになる。そして、そのことが、二人の溝をさらに深くしている。
シャルロッテはエーヴァと同じく、親から愛されず、愛する術を知らなかった。彼女が愛されるには、自身の音楽の才能を発揮する以外に方法がなかった。しかし、音楽にのめりこみ過ぎたが故に、彼女は自分の家族を愛することを、愛されることを失うのである。
また、エーヴァももはや、単純な被害者とは言えない。シャルロッテは確かに、娘を不幸にすることで喜びを得ていた。しかし、母との再会を果たしたエーヴァは、母の意にそぐわないことを繰り返し、母にやり返すことで悦楽を得ているように思われる。彼女は夫に母の陰口を吹き込み、母をうまくやりこめた時には、嬉しそうにそれを報告する。彼女もまた、母の不幸は娘の喜びであると知ってしまっているのだ。
悪夢のような一夜ののち、シャルロッテは逃げるようにエーヴァの家を去る。母は別の恋人の許で、ひたすらに言い訳を重ねる。エーヴァは現実に打ちのめされ、死すら考える。しかし、死ぬわけにはいかない。
女優の年齢をそのまま当てはめるならば、娘はもう40で、母に至っては60を過ぎている。二人とも、もう大人なのだ。劇中で、エーヴァの夫は、子供のみが希望や期待を抱くと述べている。ならば、大人であるはずの二人は、和解しあえるという希望を捨てるべきであろう。ここに至っては、人間は根本からは変われない。恐らく、歩み寄ることなどできない。エーヴァは今、自分をありのままに愛してくれる伴侶を持っている。本当に欲しかったものを、すでに手に入れているのだ。ならば、彼女は母を捨てるべきだ。わたしはそう思った。
しかし、エーヴァは諦めない。彼女は再び、母に手紙を書く。夫がその手紙を読む。心象風景の中、エーヴァがまっすぐに前を見つめ、母に、わたしたちに語りかける。人は分かり合える。赦しは存在する。二度とママを失いたくない。たとえ手遅れでも、自分は諦めない、と。余りにも無邪気な希望に溢れたその内容は、まるで幼子が書いたもののように思う。その純粋さに感銘しつつも、それを40に差し掛かった大人になりきれない母の子が書いたという、ある種のグロテスクさに圧倒されもする。
そして、心象風景の中に、母シャルロッテが現れる。彼女は何も言わず、ただ前を見つめている。期待と恐れが入り混じったような、でも、光の印象に満ちた顔。母の胎から生まれ、初めて世界に対面した赤ん坊が泣くことを赦されなかったら、きっとこのような表情を浮かべるのではないか。そう、もしかしたらこの顔は、未だ自分は生まれていないかもと吐露していたシャルロッテが、本当の意味で再生したことを示唆しているのかもしれない。それは単なる可能性に過ぎない。でも、その可能性がわれわれの胸を打つ。
先にわたしは、子供のみが期待や夢を持つと述べた。大人になっても希望を持つ姿は、グロテスクであるとすら言った。しかし、エーヴァの子供のような愚直さがなければ、シャルロッテはこのような顔を浮かべなかったはずだ。母がこの表情を浮かべた瞬間、二人の間には、確かに何かが通じ合ったはずだ。これは単なる心象風景の描写であろうし、その時間は一瞬であった。しかし、メタ的に言及するならば、その一瞬はフィルムの中に克明に記録され、永遠に反復され得るのである。ここにおいて、自分はどうしても、瞬間と持続との幸福な和解を、読み込んでしまいたいのである。
シャルロッテを演じた名優イングリッド・バーグマンは、この幼子のような表情をもって銀幕を去った。この演技には、それまでの彼女の全人生がこめられているように思う。演技も演奏と同じく、再現不可能な一瞬の芸術である。しかし、映画はその一瞬を捉え、永遠にできるのだ。このフィルムを前にして、わたしは、映画なるものが発明された幸福を、ただただ、噛み締めている。
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*1:桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』角川書店、2009年、53頁。