ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

続・古本を売りに

She walks in the field that's just across the way
And picks all the flowers that brighten up a day.
And the blue velvet cape that she wore around her neck,
And the red in her cheeks gave a Rag Doll effect.

The wind in the trees sings a sad, sad, sad song,
I lie in my bed listenin' all night long.
A wind in the trees sing a song just for me,
And bring back the Rag Doll to me.

あの娘は野原を歩いている この道の真向かいに広がる野原を
すべての花を摘み集め 一日を明るく照らしてくれる
青いビロードのケープを首に巻き
頬に赤みが差しているせいで あの娘はまるで人形のようだった

木立を揺らす風がうたう 悲しい 悲しい 悲しい歌を
ぼくはベッドに横なって 一晩中それを聴いている
木立を揺らす風がぼくだけのためにうたい
あの人形を取り戻してくれる

 

 ザ・ビーチ・ボーイズの"Disney Girls"のカバー目当てでアート・ガーファンクルの『愛への旅立ち (Breakaway)』を聴いていたら、何とも美しい歌に出会った。"Rag Doll"という曲で、スティーブ・イートンの作品をカバーしたものだという。英語のヒアリング力が糞なので歌詞の内容を把握し切れなかったが、その寂しげな旋律と、内省的な呟きの如きガーファンクルの歌唱に、俺はすっかり魅了された。すぐにネットで歌詞を探し出し、Bookshelf片手に少しずつ訳していった。予想通り、失われた過去に対する感傷を描いた曲だった。"I Only Have Eyes For You"みたいな能天気な曲も収められてはいるが(いやでも、この曲大好きっすよ、マジで)、"Disney Girls"と"Rag Doll"にうたわれている昨日への哀切の情こそが、このアルバムの基調にあるのではないだろうか。そして、俺がこのアルバムを手にとったのは、たぶん俺の中にある強烈な感傷癖が、同類の臭いをここに嗅ぎ取ったからではないか。
 ここ数年、俺はずっと、ほぼ過去への感傷だけを燃料にして生きてきた。今はこんなに空虚だけど、過去はそうではなかった。この人生にも目覚ましい出来事は少なくなかった。当時は自覚できなかったけど、確かにそこには美があった。今もそうだ。今も過去になってしまえば、時間がヴェールを取り去って、ここに隠された美を明らかにしてくれるだろう。そんなことばかり考えて、何とか自分を維持してきた。昔は違った。むしろ未来ばかり見ていた。未来は真っ白なスクリーンみたいなもので、そこに自分の好きなものを何でも投影することが出来た。こんな人生も面白そうだ、こんな人生も悪くない。未来を自分勝手に捏ね繰り回しては、独りで悦に入っていた。しかし、そのスクリーンもほとんど焼け落ちてしまった。時折、残された切れ端に新しい空想を投じたりもする。でも、それだけでは現在を支えきれない。だから過去に縋るのだ。過去は未来のように真っ白ではない。そこには既に色があり、形がある。しかしそれは自由に解釈することが出来る。小さなものを大きく拡大してもいいし、少し明度を変えてもいい。出来上がるのは皆うつくしい思い出ばかりだ。だが、それは真実とは限らない。彼女の首に巻かれていたケープの青は、果たしてそんなに鮮やかだったろうか。彼女の頬に差す赤は、果たしてそんなに温かかったろうか。そんな疑問をいくらでも呈することが出来るだろう。しかし、その答えは今や時の波に押し流され、過去の彼方へと消えてしまった。だから、俺たちはいくらでも都合のいい答えを出して、自分を慰めることが出来る。
 今日も件の古書店に不要な本を売りに行った。これで五度目だ。これで最後だ。かつての研究に使っていた本は、これでほぼ全て一掃された。学校を出て、計画が破たんして、それらの本が要らなくなってからもう何年も経つ。夢破れてすぐ売ればよかった。でも、それを売るためには、今までの努力が水泡に帰した現実と向き合わなければならない。それは軟弱な自分には無理な話だった。だから俺はそこから目を逸らし、現在の持つ実在感を失うまで待つことにした。そして、時が来たという訳である。俺は何の感慨もなくそれらの本をキャリーバックに詰め込んで、古書店の亭主に売り飛ばした。亭主からもらった金で、焼肉とかしゃぶしゃぶとかを盛大に食った。それを五たび繰り返した。本棚からはかつての夢が一掃された。だがそれは喪失ではない。過去になったのである。本という具体的なかたちを失ったかつての夢は、その非在性ゆえに自由な解釈の材料となった。現在という強大な存在の領国で生きていくためには、どうしても無が必要とされるのだ。
 今日はとことん感傷に浸ろう。そう決めた俺は、むかし通っていた教会の近くを散策した。その界隈を歩かなくなって何年も経つ。一見なにも変わっていないように見えて、色んなものが少しずつ失われていた。教会の三軒隣にあった小さな書店はファミリーマートに変わっていた。教会の帰りに、よくその書店に寄ってラノベなんかを立ち読みしていた。あそこに大きな木が立っていたはずだが、丸ごとなくなっている。古い木のようだったし、たぶん市が切り倒したのだろう。秋になると、ご近所さんと一緒にその落ち葉を掃除したなあ。あそこは空き家になったようだ。ずっと建設中だったマンションには、今では人が暮らしている。かつての現在が、無に帰ったこと知ることで、過去へと変わってゆく。かつてはその変容を恐ろしく感じていたが、今は甘美にしか覚えない。もしかしたら、この今も過去になって無に帰してくれることを教えてくれるからかもしれない。でも、その甘美さは何も生み出さない。
 何かを計画する、何かを生み出すという行為は、現在から未来へと向かうものであり、存在に強固に根差したものである。しかし、現在に倦み疲れ、未来に絶望した人間には、そんな芸当はとても出来やしない。だから過去に、無に縋るのだ。何かを生み出しても、今ここに何かが在っても、それらはいずれ無に帰してしまう。それは明らかに喪失であり、破壊である。しかし、現在は、存在は、その揺るぎなさゆえに、俺たちの自由を脅かす。過去は違う。過去は、無は、俺にとって何の脅威にもならない。脅威になるとしたら、俺の解釈がそうさせているだけだ。俺は今も明日も支配できないことを知った。でも、過去に対してだけは、君主として振る舞うことが出来る。
 ブルース・ジョンストンの手による"Disney Girls"は、この考えを極限まで突き詰め、芸術にまで昇華したものだ。彼はこのように歌う。

Oh reality, it's not for me
And it makes me laugh
Oh, fantasy world and Disney girls
I'm coming back

現実なんていらないよ
そんなのお笑いだ
空想の世界とディズニー・ガール
そこへとぼくは帰ってゆく

 

 昔はこれは単なる感傷のように思えたが、今聴くと、ここには死への衝動が秘められているのではと思う。ものごとは無になることで過去になる。過去になることで無になる。その過去へと、無へと戻るということは、死を意味するのではないか。この曲が世に出た1971年、ザ・ビーチ・ボーイズは着実に崩壊へと向かっていた。崩壊。死。だがジョンストンはそれすらも芸術の糧とし、創造した。
 そう、感傷は創造の原動力となり得るのである。
 今の自分にもし希望があるとするならば、それはこの一点に存する。今書いているこの文章も、その理屈を探るためのものだ。何とかして、その原理を探り当てたい。それが分かれば、俺は過去から未来を、無から有を創りだすことが出来る。でも、今のところ、どうすればいいのかよく分からない。ずっと分からないままかもしれない。でも、とにかくやることがある。それは幸せなことだ。
 とりあえずまあ、もちっと前向きな曲を聴かなきゃなあ。坂本真綾の「プラチナ」でも聴くかあ。あいあむあどりーまー。ひそむぱーわー。

 

愛への旅立ち

愛への旅立ち

 

 

プラチナ

プラチナ

 

 

古本を売りに

 今月に入って、大学の研究で使っていた本を片っ端から売っている。県内には人文系の研究書や洋書を正当な価格で買ってくれるような古書店は存在しないっぽいので、片道一時間かけて他県まで売りに行く。旅行用のキャリーバックに本をパンパンに詰めて、ゴロゴロ転がして電車に乗って、乗り換えして乗り換えして――車窓をぼんやり眺めていると、見慣れた景色が少しずつ見慣れぬものに変わっていく。そういえば、自分はいつも本に連れられて、知らない場所に赴いている。そこだけは、昔とあまり変わらない。

 その古書店は、いわゆる閑静な住宅街にある。家とマンションと団地があって、スーパーとマクドナルドとスイミングスクールがあって、そんな場所の、とあるローソンの近くにその店はある。見た目は五階立てくらいだけど、店は二階まで。たぶんその上は倉庫とかオフィスなんだろうな。その店の扉を開けると、二胡のうつくしい旋律が聴こえた。うつくしく、心惹かれるが、しかし聴き手の集中を乱さない、そんな曲だった。いい店だなあと、そこで思った。

 この本売りたいんですけど、そう言ってカウンターに本を積む。査定が終わったら呼んでくれるということなので、それまで店内を散策することにした。一階は文学と人文書が中心で、二階は新書や文庫、社会科学や自然科学、古いレコードやマティスの複製画なんかもあった。土日でだいぶ賑わってたが、客層は壮年以上の方々が中心で、言っちゃなんだがどの人も金を持ってそうな感じだった。立地からしても、大学教員とか経営者とか文筆家とか、そういう面々なんだろう。そんな客層を反映してか、古書の価格も基本的に強気な印象を受けたが、よくよく探してみると、けっこうな掘り出し物もちらほら見つかった。一番の発見は大正義高津春繁御大の『ギリシアローマ神話辞典』で、お値段なんと500円。これは買いだなとニヤついてると、買い取り希望のお客さまーと呼ばれる声がした。

ギリシア・ローマ神話辞典

ギリシア・ローマ神話辞典

 

  先にも言った通り、売りに行った本は、大学での研究で使っていた本だ。あるものは日本の古本屋で買い、あるものはAbeBooksで買い、あるものは宮城の古書店で買い、あるものは先輩に譲ってもらった。このテーマで自分は食ってくんだと精魂込めて集めた本だった。家や図書館で繰り返し読んで、丹念にノートを取って、ああでもないこうでもないと考えて、論文の脚注に何度もその名を刻んだ。俺はこれで食ってくんだと、そう思って付き合ってきた本だった。なのに、今はこうやって、見知らぬ古書店に売りに来て、そのことに対して何の感慨も抱かないでいる。過去が本当に過去になってしまったのだと、改めて実感する。

 帰り道、一万円分重くなった懐をさすりながら、どこかで何か食べようかなあと、口元を綻ばせながら考えた。これだけいい値段を付けてくれるなら、いらない本はこの際だから全部あそこに売ってしまおうと考えた。そして、それで出来た金で、今ハマっているテーマの本を買えばいいと考えた。そう、生きていれば必然的に新しい主題が生まれてくる。幸か不幸か、いつまでも過去に拘泥してられるようには、人間は出来ていないのだろう。人が未来を向いたとき、たぶん過去は少しだけ、ほんの少しだけ手助けしてくれる。新しい主題がうまくいくか分からない。前回みたいに水の泡になるかもしれない。でもそれでいい。そのときはまた参考文献を売っぱらって、その金で肉でも喰えばいいんだ。

太白図書館にまつわる自分語り

 勉強をする時、俺はとにかくテキストを音読する。英語でも現文でも世界史でも何でもそうだ。口に出して読まないと、きちっと血肉になってはくれない。だが、残念なことに予備校の自習室は音読禁止だった。一度こっそり小さな声でボソボソと音読したことがあるが、横に座っていたガタイのいいあんちゃんにジロリと睨まれた。これは困った。俺は家の机だと集中できない。ファミレスやカフェは勉強禁止のとこばかり。図書館も音読禁止。さてどうしようかと思って、ひとつ思い当たった。たいはっくるの地下の吹き抜けはどうだろう。
 たいはっくるは長町駅のすぐ近くにある複合文化施設だ。地下一階から五六階までは公共施設や色んな店舗が入っていて、そこから上は全部マンションになっている。目の前は駅だし、すぐ近くにはザ・モールや役所がある。最高の立地だった。もし大人になってまだ宮城に住んでいて、それなりに稼げるようになってたら、ここに住みたいなと思っていた。そしたら、いつだってすぐ太白図書館に行けるから。
 太白図書館はたいはっくるの一階と地下一階にある。一階は書籍と雑誌で、地下はAVコーナー。一階と地下を繋ぐ階段は、とても大きく重厚で、一歩一歩降りるたびに、静かな高まりを感じたものだ。そこの地下で俺は、いわゆる文芸映画、芸術映画と言われるものに初めて触れた。端緒はタルコフスキーの『惑星ソラリス』だった。インターネットや映画雑誌などで『2001年宇宙の旅』と並んで讃えられる傑作SF。小学生の頃から、子供用にリライトされたアシモフやヴェルヌやE・E・スミスを好んで読んでいた自分にとって、それは新しい次元の作品のように思えた。これを観れば、自分は一つ高い段階に進めるのではないかと思った。あの地下の灰色の広い空間で、ソラリスの大きな正方形のLDケースを手にとった時、そう感じたことをよく覚えている。
 果たして、それは事実だった。
 よく分からない。というか、全く分からないというのが最初の感想だったが、図書館からの家路の中で、俺の脳裏にあの映画の幾つもの画面が万華鏡のように浮かんでは消え、そしてまた無数に浮かんできた。東京の高速道路、ソラリスの基地の暗い通路、人ならぬ妻の人並み外れた美しさ、特に自死から甦る際のあの妖艶さ、空に浮かぶ卓子、燭台、バッハの調べ。これが芸術というものなのかと、若い自分は滾った。家に帰ってPCをつけて、タルコフスキーについて調べた。今では潰れてしまったようだが、当時ある有志がタルコフスキーに関する資料を翻訳して掲載していたサイトがあり、そこでこの不世出の監督の言葉に多く触れることが出来た。彼の理念、芸術観、そして彼の尊敬する芸術家について。彼はベルイマンというスウェーデンの映画監督を特に讃えていた(ように自分には思えた)。特に、『冬の光』という作品を。調べてみると、これも太白図書館にあった。これが、俺にとって決定的だった。この作品で描かれている神の沈黙を巡る苦悶に、俺は心から共感した。クリスチャンホームに生まれ、神を信じたいと思いながらも、寸でのところでそこにコミットし切れなかった自分にとって、この作品の主人公の逡巡は、他人のものとは思えなかった。そして、終盤近くの、イングリット・チューリンの祈りの美しさ! こんな映画を死ぬほど観たい、浴びるほど観たいと思いながら、地下の出口から外に出た日のことを、俺は決して忘れないだろう。
 たいはっくるの地下の出口を抜けると、そこは一階まで吹き抜けになっている。中央に公共のスペースがあって、そこをぐるりと囲むように、三方に図書館と様々な店舗の入り口、そして真正面に階段があった。公共スペースの中央には幾つか机と椅子があったが、大体は空いていた。俺はその一つを占有して、そこで存分に音読した。色んな人が行き交い、話し、子供がはしゃいで叫んだりするその空間では、俺の声など心地よい雑音の網目の一本の糸に過ぎず、誰の気を引くこともなかった。そこは絶好の場所だった。多少の雑音があった方が勉強は身が入るものだし、疲れたら図書館に入って本を読んで気晴らしをすることが出来た。
 太白図書館の書架には魅力的な本しかなかった。そこでは何を読んだだろうか。余りに読み過ぎて、よく分からなくなっている。そうだ、プラトンの『プロタゴラス』を初めて読んだのはここだった。稀代のソフィストを皮肉たっぷりに描くプラトンの筆致は極めてユーモラスで、しかし極めて澄み渡っていた。それに通じる精神を強く感じたのが、田川建三の『宗教とは何か』の上下巻だった。新約学者、と括るにはあまりに巨大で特異なこの人物は、まるであらゆる権威を憎悪しコケにしているように感じられ、なのにその罵詈雑言は知性とユーモアに満ち満ちており、読んでいて快楽しか感じない。他人の誤訳をあげつらい、時に恩人にすら牙をむく彼はまるで獣のようだったが、人はもしかしたら、そのような自らの獣性に、原始性に自覚的であった方が、むしろ創造的なのかもしれない。そう思ったのは、エリアーデの『世界宗教史』を読んでいたからだろうか。この巨匠は原始文明と東洋の思想のみで構成された形而上学史を紡いでみたいといった旨のことを述べていたらしいが、この未完の大著を読むと、彼が本気でその野心に取り組んでいたことが分かった。従来の西洋の哲学史においてごっそりと抜け落ちていた原始・東洋の文明のうちに、古代以降の西洋のそれに匹敵する確たる超越=真理への意志が存在していたことが、この上なく明晰に記されている。そして、その論述が放つ光に照らされると、西洋の精神史はまったく新しい顔を呈する。そう、過去なのに新しいのだ。ここに歴史を探求する醍醐味があるのだろう。これと同じ興奮を味わったのが、シュテファン・ツヴァイクの『人類の星の時間』である。既に『ジョセフ・フーシェ』を読んでこの作家に魅了されてはいたが、この一冊をもって彼に対する信奉はいよいよ揺るぎないものとなった。人類の星の時間。我々の歴史においてひときわ輝く歴史的な瞬間を、彼はこのように表現した。人類の星の時間。それは当時の俺にとっても、星のように美しい、眼に甘いものと思われた。しかし、今になって気付くのだ。当たり前だが、その星の時間はすべて過去のものであると。そう、大人になると、過去だけが星のように煌々と輝き、でもその輝きは、今と未来を照らせるほどに強いものではないのだと。
 だから、俺は未だに『昨日の世界』を読めていない。
 たいはっくるの地下一階の、あの広々とした空間で一人勉強していたころの俺は、受験生特有の飢餓と不安に襲われてはいたが、それでも、今に満足し、未来に希望を抱いていた。それが若さというものなのだろう。太白図書館で出会った数多くの美しい文化を燃料に、俺は精一杯夢を燃やし、それを駆動力にして前に進んだ。進み続けた。だが、そのようにして駆け抜けた先は茫漠たる暗闇であり、砂漠であった。今ではようやくその荒野を生きるための術を学びつつある。だがそれは、未来に背を向け、美しかった過去を振り返り、それを愛でることと不可分であった。そう、かつては未来へと向かう燃料だったものが、今では単なる慰み物にまで貶められてしまったのだ。その元凶は俺の無力だ。俺の無力と不覚と不運だ。でも、美しい過去は、それすらも許容してくれるように感じる。それが、今の俺には何よりも恐ろしい。
 予備校と図書館の間には橋があり、図書館と家の間にも橋があった。夜、それらの橋を通るとき、はるか向こうに立ち並ぶ建物や工場の放つ光が、時折、とても美しく思われることがあった。あの日受け取った美を、今の俺はどうすることも出来ず、ただ持て余している。これをいつか、何かのために活かすことが出来るだろうか。もしそんなことが出来たなら、俺の人生にも、ささやかな星の時間が生まれるのではないだろうか。そんなことを考えながらも、俺はただ、同じ場所で足踏みするばかりだ。

【歌詞和訳】Will this be the song I'll be singing tomorrow(『死亡遊戯』EDテーマ)

 うちの母親は大変立派な人間で、物心ついたばかりの俺にブルース・リーの映画をたらふく与えてくれた。小さい自分には難しい話は何も分からなかったけれど、格好いいヒーローがカンフーで敵をやったらめったら倒しまくるのは痛快だった。それから今に至るまで、種々のカンフー映画を折に触れては摂取して生きてきたのだが、彼の遺作である『死亡遊戯』をちゃんと観たのはごく最近のことだった。未完成な内容が色んな人間にこねくり回されてる感じがして、これを観るのは本当にブルース・リーの意思に適うのだろうかと思ったのだ。果たして、映画自体は褒められたものではなかった。いや、ブルース・リーの演武はこの上なく素晴らしいが、やっぱり何というか、まだまだ手を加えるべきものを無理やり形にして世に出してる感じがした。でも、そこに大きな救いを与えてくれてたのが、名匠ジョン・バリーの音楽だ。OP曲のカッコ良さも特筆すべきだが、ここに訳したED曲が本当に本当に素晴らしかった。
 この映画のEDシークエンスには、過去のブルース・リー作品の名場面が散りばめられている。演武もあればラブシーンもあり、実に絢爛たる内容で、彼が短い生涯でどれだけの宝を残してくれのか、改めて確認させられる。でも、最後の最後に、ブルース・リーの最後の作品の幕引きとして選ばれたのは、芒の茂る草むらに、彼が独り座って、どこか不安そうな表情を湛えている場面だった。それはもちろん、単なる映画の一場面であり、演技に過ぎない。でも、そこからは、カリスマや天才の奥に潜む、ブルース・リーという人間の姿が垣間見えるように感じた。彼は天才だった。空前絶後の天才だった。でも、その才能ゆえに、彼は孤独だったんじゃないかと思う。確かに彼は良き師にも、素晴らしい家族にも恵まれたが、それでも、彼は究極的には孤独だったんじゃないかと思う。最後の最後に、この映画は、そのことを暴露したように思った。でも、そこで流れるのがこの歌なのだ。自分と共にいる人の心を慰めるために、美しい歌を探す歌。それはもしかしたら、彼に魅了され、彼を愛したすべての人の望みと願いをうたったものなのかもしれない。『死亡遊戯』は決して褒められた映画ではないかもしれないけれど、でも、彼のフィルモグラフィーの最後が、こんなにもうつくしい祈りで締めくくられたことだけは、100パーセント肯定したいと思う。
 えっと、まあ、あの、すっげえいい歌です。ほんっとうにいい歌。ジョン・バリーありがとう。

 

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【歌詞和訳】Just Like a Butterfly That's Caught In The Rain

 かなり古い歌ですが、今の時代の色んな人に共感してもらえるような内容だと思います。雨に濡れた蝶なんてうつくしいもんじゃないけれど、何となく似たような仕方で自分も疲弊しています。はやく晴れてほしいもんです。

 

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『海底大戦争 スティングレイ』のOPとEDを訳してみた(Barry Gray / Stingray, Aqua Marina)

 少し前に『宇宙船XL-5』のEDを訳したので、今回はそれに続くジェリー・アンダーソンの大傑作海洋SF人形劇『海底大戦争 スティングレイ』のOPとEDを訳してみました。どちらもクッソ名曲です。バリー・グレイの天才が炸裂しています。特にEDの"Aqua Marina"なんかたまんないっすね。冒険SFもののEDテーマとしてこういうメロウなナンバーを採用するあたり、やはり大英帝国のセンスは素晴らしいとしか言いようがないっス。ちなみに、"Aqua Marina"ってのは劇中のヒロインの一人の名前で、言葉が喋れない設定なんですよね。そこも踏まえると歌詞が一層深みを増します。

 

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【詩和訳】ハリール・ジブラーン『狂人』より「三匹の蟻」

 日曜なのでハリール・ジブラーンのThe Madmanを訳すんべかなのコーナーです。テクストは南の国からこんにちはProject Gutenberg Australia*1です。今回訳したのは'The Three Ants'という小品。自分の見てる世界がどれだけ狭いのかわかってないのは、たぶん人も蟻んこも同じなんでしょうね。

 

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