ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

若林図書館にまつわる自分語り

 家から絶妙な距離だった。自転車で40分くらいだったろうか。橋を二つ越えると、街中なのに緑がやたらに多い場所がひらく。まず目に入るのは長崎屋。それからバイク屋。車屋だったか? 少なくとも、レッドバロンでないことは確かだ。そのまま真っ直ぐ行けば泉につながる。でも途中で左に曲がる。確か、和菓子屋が左折の目印だったか。そのまま真っ直ぐ行けば長町駅とかにつながる。でも、途中で左に曲がる。着いた。
 やけに近未来的な公共施設(若林区文化センターというのだそうだ。確かに、この上なく文化的な場所だった)の中に若林図書館はある。自転車置き場は生垣に沿って長く続く。萌える草木の向こうには、窓からのぞく書架、書架、書架。中年から老年の間の人が、良く窓辺で本を読んだり、寝てたりしている。窓から覗く図書館の情景に堪らなく惹き付けられてきた。でも、何故だろう?
 文化センターに入ると、エントランスが広がる。目の前には大きな階段。天窓から光が差し込む。たまに行事があるときは人がわらわらと上り下りするが、何もないときは静かなものだ。自販機。左側には、確か喫茶店。そして右に図書館の入り口。
 入るとすぐに、新刊のコーナーがある。いつの日か、そこにフレッド・アステアの自伝がおいてあるのを見つけたっけ。すぐさま借りて、夢中になって読んだ。絢爛たる世界の背後には、砂漠の修道士のような求道の精神が隠れていることを知った。
 少し行って左に曲がると、全集とか総記とか、そういう類の本がわらわらと。そこから現代日本文学大系の現代評論集を抜きだして、三木清とか林達夫の批評を、なるほどなるほどと頷きながらよく読んでいた。何がなるほどだ。当たり前だが、ちっとも分かっていなかった。
 奥にずーっと行くと、二階へと上がる階段が見える。上はAVコーナーだ。色んな映画を、ここで観た。印象に残っているのはなんだろう。『コーラス・ライン』の映画版を観たのはここだったっけ。思ったよりも面白くなかった。サプライズ、サプライズ、っていう歌は何となく知っていたが、セックスの歌だと分かって何かがっくりきた覚えがある。あと、マイケル・ダグラスが出てると、一気にチープになると言ったら、ファンの人に怒られるだろうか。それから、オーソン・ウェルズの『審判』とか、『第三の男』を観たのもここだ。そうだな、若林図書館ではオーソン・ウェルズを学んだ。『審判』はシュールな世界がえらく気に入って、借りて家でも観たよなあ。この映画は頭おかしいと家族にも褒められた。
 ここで自分はいろんなものに出会ったが、一番おおきなインパクトを俺に与えたのが、シモーヌ・ヴェーユ(この本の表記ではヴェイユ)の『超自然的認識』である。彼女の最晩年に、アメリカとロンドンで記されたノートをまとめた本書は、たぶんヴェーユの最高傑作だろう。特に、冒頭に掲げられた「プロローグ」なる小文を初めて読んだ時の感銘は凄かった。読み終えた瞬間、夢中でコピー機のところへ行って、その一文を複写した。実は、そのコピーは今でも手元にあったりする。
 彼女の神秘体験――キリストとの邂逅を下敷きにしてると思われるこの散文こそ、この世で最もうつくしい文章である。少なくとも自分は、そう信じている。ごくごく簡潔な文体なのに、隅々にまで詩情と神秘性が行き渡っている。そして、田辺保の訳は、その瑞々しさを、余すところなく日本語に移してみせる。同じ文章を冨原眞弓も「カイエ3」と「カイエ4」で訳しているが、何かが違うと思ってしまう。でも、いったい何が違うんだろう。そういうことを、今に至るまでずっと考えてきた。
 閉館は6時か7時。いつも、その少し前に帰っていた。建物を出る。外はもう暗い。暗くて寒い。白い息を吐きながら、自転車の鍵を開ける。顔を上げる。窓から漏れる光。本を読む人々。トリュフォーの『華氏451度』のラストで、森の中を本を覚えながら行き交う人々のことが、いつだか、ふと頭に浮かんだ。