ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

記憶と星座

 ヨコハマ買い出し紀行ドラマCDオーダー13に入っているGONTITIのa summer’s melody。その歌詞で、自分の一番好きだったところに”to the sand and the sea”というのがあった。この”sea”の後の間に何とも言えぬ余韻があってよかったのだ。しかし、このたびa summer’s melodyをYoutubeで発見したので、通して聴いてみたら、”sand and the sea shore”と、”shore”なる一語が入っていた。そんな馬鹿なと思ってオーダー13を聴きなおしてみたら、被っている台詞に隠れていたけど、実際に言っていた。
 ということで、おれはもう”to the sand and the sea”という歌詞を聴くことが出来ない。個人的には、そっちの方が好きだったのだけれど、一度知ってしまうと、もう二度と元には戻れないだろう。
 現実すべてのことに、これと同じことが起こりうる。ずっとこうだと思い込んでいたけれど、実はそうではなかった、ということが。本当のことを知ると、それまでの本当がもはや消えてなくなってしまう、ということが。
 本当のことよりも、本当だと信じていたことの方が美しいことはよくあることだ。真実を愛するか。幻想の美を愛するか。

 

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 キリ・テ・カナワの歌を聴きながら、同じくこれを聴いていた、高校生の頃をふと思い出した。思い出す、というほど確かなものではない。なんとなくその頃のものと思われるような、幸福な余韻に包まれたというか、懐かしさに包まれたというか。何ともおかしいことだ。あの時期は当時の自分にとって地獄以外の何ものでもなかったのに、こんなに懐かしいだなんて。なんとなく戻りたいとすら思ってもいる。信じられない。あんなにも逃げ出したかったのに。
 不幸や苦難というものは、それから遠ざかれば遠ざかるほど、その実在を失ってゆく。それはあまりにも儚い。だが、それとは対照的に幸福は、それからどんなに遠ざかっても、決して失われることはない。
 かくて、過ぎ去った時期に関する記憶においては、山と積まれていたはずの苦難が消え去って、その内に散らばっていた塵のような幸福だけがわたしの前に現れてくる。彼らにされた仕打ちを思い起こしても、もはや何の感情も湧いてこない。しかし、あのひとからもらった言葉の温もりは、あのひとのうつくしさは、今も変わらずにある。
 なんということだろう。あのころに戻りたいだなんて。とてもじゃないが信じられない。しかし本当だ。世界が滅びればよいと毎日願っていたあの日々が、いまとなってはいとおしくて仕方がない。
 いまあるものをわたしは憎悪する。まだないものをわたしは恐怖する。もはやないものをわたしは後悔する。しかし、もはやないはずなのだけれど、いまでもたしかに残っているものがある。それはまるで幾粒かの砂金のようで、あまりにちっぽけであるが、しかしあまりにも美しい。この美しいもの、苦難によって隠されていたが、今では顕わとなった、あの日々の美しい記憶が、わたしが今まで生きてきたことへの代価である。わたしは血と涙と歯軋りと引き換えに、憎みに憎んでいたあの日々を、今日という日に愛することが出来るよう約束されていたのであった。
 今は愛せなくてもいい。いつかは愛せるようになる。目の前にあると愛せないものでも、それが失われると、急にいとおしくなる。それでいいのだ。いつかは愛せるようになる。
 もし死が次のようなものだとしたら――すなわち、もはや苦難のない場所で、自分の生きてきた生全体に対し、上のような懐かしさを、いとおしさを感じることができる、そんなものだとしたら――今までの生全体を俯瞰して、苦難という深い黒のヴェールの上に散らばっている美しい金の粒を辿りながら、そこにひとつの星座を見出すことができるような、そんなものだとしたら――