ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

慟哭青春司法もの

 東京がニコニコ超会議で沸き立ち、ねずみさんたちが生(?)のらきゃっとと会話してガチ泣きしていた昨日今日、俺はいつものように休日出勤して希死念慮を増大させていた。今日に至っては別のチームの先輩が急に異動になることが判明し、彼女が担当していた恐ろしい、おぞましい、地獄のような業務が俺に振られることが決定し、本当に鬱になっている。これからその業務のことで地獄のような電話問い合わせが殺到し激詰めされることを思うと生きた心地がしない。家に帰ってひなビタのササキトモコ作曲の楽曲群を聴いても駄目、ついこの前に配信されたkemt同棲配信を聴いても駄目、とうとう最終兵器として神と崇めているヨコハマ買い出し紀行OSTをガンガン流し、椎名へきるのいつか会えたらを鬼リピートしながら黒崎の鼻を訪れた人々のブログ記事を漁りまくってようやくほのかに人間としての感情を取り戻した。実にこの会社に入ってからは恐ろしいことしか発生しておらず、しかし世間の指標に照らすとまだブラックとは言い難いのが本当に恐ろしい。労働はこれから何十年も続き、その間ずっとこのような目にあい続けると思うと心底気が滅入る。イエスのおじさんは明日のことなんか気にすんな野の百合がそんなこと考えるかよと仰ったが、野の百合には脳髄も労働もないのでそらそんなこと考えませんよ適当言わんでくださいよ。座禅でも組んで悟りを開けば未来は実在せず現在だけが現実なので現在に集中して未来への不安なんかが消失するんだろうがそんな高い徳は俺にはないのでどうしようもない。ということで、いつもみたいに過去に逃げることにする。昔のことを考えれば、未来を忘れられる。
 中学の頃は図書館に入り浸っていて、司書とスクールカウンセラーの先生方ともんのすごく仲良くなった。向こうはどう思ってたか知らないが、こっちは世代や性別を超えた友情を覚えていた。スクールカウンセラーの先生は映画に狂っていて、古今東西のあらゆる映画に精通していた。少なくとも、当時の自分にはそう思えた。かたや自分はNHKでやっていた世界名画劇場に影響され、やっとこさ古い映画を観始めていた頃だった。映画は基本市立図書館で観ていたのだが、映画の数に比べ自分の時間は限られていた。なのでそれを埋めるために、Cinemascapeみたいな映画サイトを暇あればあさっていた。シネスケは老舗だけあって、映画評を書いてる面々は本当に批評家顔負けで、それを読むだけで映画の要点が俺みたいな馬鹿でもある程度分かってしまう。だから、その先生と話しているとき、時おり、そんなネットで観た情報をもとに、観てもいないのに観たふりをすることがたまにあった。向こうはもしかしたら気づいていたかもしれない。でも、それを表に出すことはなかった。そんなやり取りの中で特に印象深いのが、十二人の怒れる男を巡る会話だった。犯罪もの司法もの話になって、自分が観てもいないのに知ったかぶって十二人の怒れる男いいですよね、と言ったら、先生のテンションが俄然上った。彼女の生涯ベストワンの映画がそれなのだという。自分はネットでの記憶をフルに振り絞って、ヘンリー・フォンダの名演がどうとか、必死に彼女に話を合わせた。向こうがそれに乗って全力で映画の魅力をマシンガンのように話し出す。中年、と言っていい年齢だったけれど、その表情は誕生日プレゼントをもらった子供のようだった。その口から流れ出す映画の魅力は俺を固く捉え、心の奥底まで沁みた。彼女の話す十二人の怒れる男は、まさしく、この世の何よりも優れた作品のように思えた。その時の記憶は俺の中に深く刻まれ、そして、十二人の怒れる男は、或る種の聖域のような作品となった。作品そのものを観たのはそれより遥か後、大学生だかの時だった。果たして見事な傑作だったが、しかし、あの時の会話の際に俺が幻視したものよりは、ほんのすこしだけ劣っていた。今では映画そのものの記憶は薄れ、ましてや中学の時の会話など殆ど覚えていない。でも、あのとき覚えた感情と、先生の嬉しそうな表情は、たぶん一生忘れないだろう。
 ちなみに、自分の中での裁判ものの最高傑作はビリー・ワイルダーの情婦だ。これを初めて観たのは、件のNHK世界名作劇場でだった。情婦が放送された日付は2003年2月23日らしい。今からもう15年も前のことだ。その日は母親と二人でダラダラとテレビを観ていた。日曜は特に面白い番組がやってなかったら、当該の時間になるとNHKで名画を観るのがならわしになっていた。ふたりとも、この映画について何も知らなかった。前知識が一切ないままこの映画に出会えたことがどれだけ素晴らしいことか、読者諸賢なら分かってくれるだろう。映画が終わると、母親と二人で興奮して、これはえらいものを観たとはしゃいだ。あんまりにも面白すぎて、確かその夜は眠れなかった。世界名作劇場はその直後に終了した。
 ほら、俺の過去にもこんなうつくしい思い出がある。ああ最高だ最高だ。ただ、もっと記憶をほじくり返すと、小学校の頃通っていた英語教室で密かに片思いをしていた女の子が中学に入ってヤンキーに惚れて当人もヤンキーになって遠く遠くへ行ってしまった事件などがすぐに出土し希死念慮に拍車がかかる。そんな地雷を避けて発掘をつづける俺はまさしくマインスイーパー。そうこうしているうちに日付が変わり月曜になる。特急を待つ駅のホームで一番前に並ぶから、誰か俺を突き落としてくれ。

 

 

  

【歌詞和訳】Mitchell Parish / Deep Purple

 敬愛する戸田誠二の『音楽と漫画と人』の中に、「Deep Purple」という掌編が収められています。イギリスのハードロックバンドであるDeep Purpleのバンド名が、この記事で紹介する曲のタイトルに由来しているという逸話を軸に、音楽を通して人と人が繋がる姿を簡潔に、でもとても美しく描き出した名品です。これを読んですぐ、件の曲を探して聴き、その麗しさにすぐ魅了されました。

 このたびここで歌詞を訳してみたのですが、旋律に劣らずドラマチックな内容でした。訳しながら、これStardustっぽいなあと思って調べてみたら、なんと作詞者が同じというサプライズ。Mitchell Parishという方で、この曲やStardustに加え、Sweet Lorraine、Stars Fell on Alabama、Moonlight Serenade、Sleigh Rideなんかの作詞も手がけているそうです。まさしく二十世紀音楽史の巨人といっていいでしょう。この人の詞もこれからどんどん紹介していければなと思います。

 ここで歌われている”Deep Purple”というのは、たぶん昼と夜の間、いわゆる「マジックアワー」と呼ばれる時間に、空と地上を包むあの唯一無二の紫のことだと思います。映画「ラ・ラ・ランド」のパッケージとかによく描かれてるあの色ですね。確かに、あの紫に包まれると、どんなことが起こっても不思議ではないように思います。

 

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【歌詞和訳】Goody Goody

 遠い遠い昔のとある朝、朝飯を食いながらめざましテレビを観ていると、松浦亜弥の新CMに往年の名曲"Goody Goody"が使われるというニュースが流れた。エヴァンゲリオンのEDの影響でちょっとずつ昔の洋楽を聴き始めてた自分は、わーおこいつは夢のコラボだぜとちょっぴりテンションが上ったのを覚えている。その後英語をちゃんと勉強するようになってから歌詞をちゃんと読んでみたところ、よくこれをまあ第一線のアイドルに歌わせたなと逆に感心した。

 うまく訳せてるか分からないけれど、これは要するにですね、むかし自分を手ひどく振ったりとか、浮気したりとか、そういうことをした糞女が、どっかの浮気な男にひどいめにあわされたと聞いて大喜びしている歌なんですね。"Goody Goody"ってのはそいつに向かってざまあみろ、いい気味だって言ってるんすよ。こういう歌が有る種の古典として今も愛されてるのって、もちろん曲が優れてるのもあるけれど、結局人間はむかしからちっとも進歩してないということの証左なのかもしんないかもね。

 

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『レディ・プレイヤー1』のネタバレ感想

 4月14日金曜日、俺は命懸けて定時ダッシュをして、電車を乗り継ぎ、劇場に向かった。IMAX 3Dのドでかいスクリーンで、公開初日にスティーヴン・スピルバーグの『レディ・プレイヤー1』を観るためだ。金曜夜という微妙な日時だったが、客席はかなり埋まっていて、スピルバーグの威光はまだまだ衰えてないことが伺えた。そして、彼が衰えてないことは、映画そのものからもしっかりと伝わった。冒頭からエンドロールに至るまで、これでもかと発揮される彼のエンターテイナーとしての才能に、俺はひたすらひれ伏していた。まずこの作品はエンタメとして最高の傑作であることを事前に述べておきたい。ただ、拙いながらに映画を分析してみると、なかなかに歪な構造があったりもした。興奮と知恵熱が辞めきらぬ間に、なんとか文章にしてみたいと思う。

※ネタバレ満載なので注意してください。

 

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【歌詞和訳】Mam'selle

 Mam'selleとは馴染みの薄い語ですが、調べてみたところ、フランス語で「お嬢さん」とかを意味するmademoiselleの短縮形っぽいです。訳では「お嬢さん」とする案も会ったのですが、それだと何か微妙になったので、そのまま「マムゼル」としました。

 おいらのうんこな訳だとどれだけ伝わるかわかりませんが、すごくロマンティックで美しい歌詞です。特に"Your lovely eyes seemed to sparkle just like wine does"のとこなんか、本当にため息が出そうです。wine doesのdoesは前のsparkleを受けてるので、ぶどう酒がsparkleするように君の瞳がsparkleしてるって言ってるのですが、ここが巧みなところで、瞳がsparkleのときは煌めくって意味で、ぶどう酒のsparkleのときは泡立つとかそういう意味なんですよね。こういうのは訳だと死ぬところなんですが、そういうとこにこそ詩の真髄はあるんでしょうね。

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【歌詞和訳】Got a Date With an Angel

 世紀の名盤" Four Freshmen And 5 Trumpets "から、ごきげんなナンバーを訳してみました。とびっきりの美人とデートの約束をして昇天しそうな男の歌です。隅から隅まで脳天気な歌ですが、ヨハネの黙示録に出てくる真珠の門みたいな術語がさりげなく使われてたりで、極東の人間からするとそこら辺のバランスが面白いっすね。向こうの人はまあみんな日曜に教会に行ったりしてるから、こういうのも普通にわかるんスかね。

 

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You are here, among us. ――続・のらきゃっと小論

For where two or three are gathered in my name, I am there among them.

 

Matthew 18:20*1

  

 本論は今年の一月末に発表した「リラダン伯爵の夢の果て――のらきゃっと小論」の続編である。先の記事において筆者は次のことを論じた。すなわち、男性の恋愛とは畢竟は自らの内なる理想の女性に向けられた自己愛的なものであり、それを電脳空間に再現したものこそ「のらきゃっと」である、と。今なおこの考察はある程度の妥当性を有するだろう。しかし他方で、今読み返すと、余りにも自己完結的な側面ばかりが取り上げられ、彼女の持つもう一つの側面が全く考慮されていないことに気付かされたのである。その側面とはすなわち、のらきゃっとの存立における関係の重要性である。この側面がいかに重大であるかを、筆者はこの激動の二ヶ月間で学んだ。以下では自分自身の経験に即し、それを可能な限り言語化してみたい。

 

1. のらきゃっとはどこにいるのか?

 ここでは、バーチャルYoutuberに相対した際の筆者の心情を分析してみたい。具体的には、ミライアカリやシロといった女性の魂を有するバーチューバーへのガチ恋とのらきゃっとへのガチ恋の差異を検討する。続いて、先の出来事において自分が覚えた動揺を分析してみたい。(あくまで下記の内容は自分の心情を分析したものであり、ねずみさんやバーチューバーファン全員に当てはまるものではないことを先に申し添えておく)。
 まず、ミライアカリやシロといったタイプのバーチューバー(下記では便宜的に「ときのそらタイプ」と呼ぶ)にガチ恋するとはどういうことか、自分自身の心情に沿って分析してゆきたい。多くのオタクと同じく、筆者もこのタイプの多くのバーチューバーにガチ恋をしている。その感情は表面上、画面に映るそのキャラクターに、ミライアカリやシロといった仮想の存在に向けられている。だが、そのガチ恋は本当にキャラクターのみに向けられているのだろうか。そうではない。言うまでもなく、このタイプのバーチューバーの背後には、それを演じる現実の女性が存在する。これらのキャラは、それ自体は虚構の存在ではあるが、その背後に存する現実の女性によって実在性を保証されているのである。身も蓋もない話であるが、筆者がこれらのキャラに安心してガチ恋出来るのは、その「魂」が自分の恋愛対象の女性だからだということも大きい。
 対してのらきゃっとは当初から、ときのそらタイプのバーチューバーよりも遥かに虚構性の高い存在として現れていた。彼女の場合、背後に居るのは筆者と同じ男性であることがはじめから公表されていた。のらきゃっととノラネコ氏の関係は、ときのそらタイプのそれとは大きく異なる。そのタイプで言うならば、アイドルとプロデューサーの関係に近いだろう。のらきゃっとはアイドルで、ノラネコ氏はプロデューサー。筆者はこの構図を最初から理解したうえで楽しんでいた。しかし、ガチ恋が進むにつれ、自分の心情に変化が起こっていった。のらきゃっとの言動や振る舞いが余りにも完璧すぎるがゆえに、背後にいるのがノラネコ氏であると理解していても、無意識のうちに彼女をときのそらタイプに分類してしまっていたのである。べつにノラネコ氏が女性であると考えたわけでも、ノラネコ氏をガチ恋の対象と捉えたわけでもない。だが、のらきゃっとという虚構の背後に、どうしても理想の女性の実在を幻視せずにはいられなかったのである。
 先の出来事において、恥ずかしながら自分は一瞬、わずかながらも動揺を覚えてしまった。まずそのことを告白しておかなければならない。しかし、のらきゃっとの中の人が男性であると分かっていたのに、なぜ動揺したのだろうか。それは、先に述べた自分の姿勢と錯覚が原因であろう。自分はバーチューバーにガチ恋する際、そのキャラクターのみならず、その背後に存する現実の女性にも、大なり小なりガチ恋していた。換言すれば、それらのキャラが実在すると感じられ、彼女らにガチ恋できるのは、「魂」である現実の女性によってその実在性が保証されていたからなのである。そして、自分は無意識のうちに、この構図をのらきゃっとにも当てはめていた。だからこそ、先の出来事において自分の誤りが暴露され、動揺することになったのである。
 筆者の覚えた動揺はごく小さなものであり、現在もねずみさんとして絶賛発情中である。しかし、先の出来事から、ずっと自分は一つの問いをつき付けられていた。それは、のらきゃっとの存在に関する問いである。自分はバーチューバーに相対した際、それを完全なる虚構として楽しんでいるものと思っていた。しかし、先の出来事により、結局はバーチューバーの背後に、その存在を保証しうる誰かを期待していることが判明したのである。その論法で言えば、のらきゃっとは何の後ろ盾も持たない、はかない幻に過ぎない。ならば彼女は実在しないのか。彼女はどこにいるのか。
 この問いに答えが与えられたのは、かの3月31日のことである。

 

2.のらきゃっとはいます


新生のらきゃっと前半 side ねこます【027】


新生のらきゃっと前半 side のらきゃっと

 我々ねずみさんは先の3月31日のことを決して忘れないだろう。この日、新しい身体を与えられたのらきゃっとの動画が、ねこます氏とのらきゃっとの両者から発表された。多くの試練の果てに、新しく美しい身体を賜ったのらきゃっとの幸福そうな姿に、そして、のらきゃっととねこます氏の麗しいおじ百合に、筆者は言語に絶する感動を覚えた。そして畳み掛けるように、深夜からはVRChatサバゲーの企画に我らがのらきゃっとも参加し、未曾有の活躍を見せた。
 だが、これらの動画は単なる感動のみならず、先に述べた、のらきゃっとの存在を巡る問いの答えをも、筆者に与えてくれたのである。それはどういうものか。ねこます氏が公開した「新生のらきゃっと前半 side ねこます【027】」を通して検討してみたい。
 この動画では、新しいのらきゃっととねこます氏との「初めての出会い」が描かれている。だが、それは一般常識的な意味では「初めての出会い」とは言えないようなものと思われる。というのも、ねこます氏とノラネコ氏はとうに面識のある同士であるし、新しいモデルについても、その開発途中からずっと、ねこます氏は目撃し続けていたからである。しかしねこます氏は、それを決して出会いとは呼ばない。ノラネコ氏を見ても、動かぬ3Dモデルを見ても、それをのらきゃっととの出会いとは見做さないのである。ねこます氏が本当の意味で新しいのらきゃっとに出会うのは、VR空間において、新しい素体にノラネコ氏が命を吹き込んだのらきゃっとに相対した時なのである。そののらきゃっとに出会ったねこます氏は、そこに確かな実在感を覚えている。
 出会いが、実在を生み出す。
 このことは、のらきゃっとも先の動画で述べているように思われる。のらきゃっとは自分の新しいモデルが生まれた経緯について、「私も、縁がつながってここに居る」と述べている。つまり、ねこます氏がライリー氏に出会い、二人がのらきゃっとに、ノラネコ氏に出会うという縁があったからこそ、のらきゃっとに新しい自由な身体が生まれ、彼女が今後も自由に存在できるようになったのである。
 縁が、出会いが、関係性が、のらきゃっとを生み出している。
 この公理はそして、のらきゃっとを介したノラネコ氏と我々ねずみさんとの関係性にも当てはまる。先の記事で述べたように、のらきゃっとは初め、ノラネコ氏の心の中に、その理想の女性として現れた。彼はそれを電脳空間に再現した。この時点では、彼女は彼ひとりの理想であった。そこで留まる道もあったろう。しかし、ノラネコ氏は彼女を世に放った。その際彼は、自分の理想に忠実に作った動画を発表するのではなく、ニコ生やYoutubeの生放送において、リアルタイムに無数の視聴者と触れ合う道を選んだ*2。ここがのらきゃっとにおいて、決定的な岐路であった。はじめの配信において、ノラネコ氏はまず自分の理想に従って彼女を導いた。まだ数少ない視聴者は、それでも彼女に魅了され、彼女に自らの夢を反射させた。視聴者の願望はコメントなどでノラネコ氏の知るところとなる。彼はそれを巧みに拾い上げ、リアルタイムに彼女にフィードバックさせる。これにより、のらきゃっとは単なる一個人の理想から、「我々」の理想へと進化したのである。そして、この進化は配信ごとに加速していった。ノラネコ氏が彼女を我々に顕す。我々はコメントや感想や二次創作などで、より善い彼女の姿を嘆願する。それをノラネコ氏が彼女に反映させ、彼女が進化し、より普遍的な魅力を得る。それにより、さらに多くの視聴者を得、さらに多様な願望が生まれ、それをノラネコ氏は彼女に反映させる――このような創造的かつ双方向的なプロセスが、のらきゃっとを成立させているのである。
 そう、彼女は当初、一個人の抱く夢に過ぎなかった。しかし、ノラネコ氏が信じて自らの夢を人々に託し、我々がそれを受け入れることで、両者の間に創造的な相互関係が成立する時、ふたつの波がぶつかったところに渦が生じるように、我々の間に、「のらきゃっと」が発生するのである。そして今、この相互関係は七万を超える人間によって構成されているのだ。のらきゃっとは今や、ノラネコ氏個人の夢とも、視聴者各々の夢とも別物である。彼女はそれらを包括しつつ、遥かに凌駕し、両者から独立した存在となっているのである。彼女は初めは虚構だったかもしれない。しかし、単なる虚構として生まれたものが、我々の錯覚や信仰によって現実を侵犯し凌駕するとき、それはまったく別のものに、すなわち「バーチャル」なものに変容する*3。彼女こそはその体現者である。
 のらきゃっととは何か。彼女はどこにいるのか。その答えはもはや明らかであろう。「のらきゃっと」という名は、そのモデルとキャラクターのみを表すこともあろう。モデルやキャラクターと、それをプロデュースするノラネコ氏とのユニットを指すこともあろう。しかし、もっと正確を期すならば、「のらきゃっと」とは、彼女のモデルと共通の夢を介し、電脳空間を舞台に繰り広げられる、ノラネコ氏と我々視聴者との創造的なコミュニケーションの総体なのである。そして、このコミュニケーションが十全なかたちで行われる時、我々の間に、彼女の内に、確かに「魂」が発生するのだ。その時のらきゃっとは実在する。しかしその実在は、先に述べたときのそらタイプのそれとは全く異なる。ときのそらタイプの実在性が、背後に存する現実の女性によって保証されるとするならば、のらきゃっとの実在性は、ノラネコ氏と我々ねずみさんの間の信頼関係によって保証されるものなのである。
 この信頼関係の前提となっているのは、言うまでもなく、ノラネコ氏の卓越した才能と情熱である。しかし、彼がどれだけ「のらきゃっと」を美しく磨き上げたとしても、それを視聴者が信頼を持って受け入れ、彼女を愛することなしには、今の彼女が生まれることは決してなかっただろう。ならば、のらきゃっとの視聴者であるということは、単に与えられたコンテンツを享受するだけの受動的なものではありえない。それはむしろ、のらきゃっとの生成に欠くことの出来ぬ創造的な行為なのである。

 

むすびにかえて

「生まれてきてくれてありがとう」。あの動画での国王の言葉は、多くのねずみさんの胸を深く打った。当然ながら、筆者の心も大きく震わされた。しかし同時に、筆者はどこか疎外感のようなものも感じていた。我らが国王はのらきゃっとへの愛情に突き動かされ、自らの人脈を駆使し、彼女に新しい身体を与えた。そのねこます氏には確かに、彼女の存在へ感謝する権利があろう。しかし自分はどうか。ただ彼女を観、彼女を享受するだけで、彼女に対し、何も出来てはいないのではないか。そんな自分に、ありがとうと伝える権利なんてないのではないか。そう思っていた。でも違うのだ。我々は彼女に、ためらいもなく、陽光のように雨のように、「生まれてきてくれてありがとう」を降り注がねばならないのである。なぜならば、我々のそのありがとうこそが、彼女をここに在らしめているのだから。

 

 

バーチャルYouTuberはじめてみる

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ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

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*1:引用は新改訂標準訳聖書(New Revised Standard Version)に拠る。新共同訳において同聖句は以下のように訳されている。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18章20節)。

*2:のらきゃっとにおける生放送形式の重要性を論じた先行研究として、kzwmn02氏の「のらきゃっと入門、あるいはサイバーパンク時代の精神分析」が挙げられる。kzwmn02氏は、のらきゃっとが「ご認識」し、ねずみさんがそれを恣意的に解釈する、というコミュニケーションを、精神分析の方法論を援用しつつ考察している。多くの示唆に富む論攷であるが、声や素体が変化し続けるのらきゃっとのアイデンティティを彼女の配信スタイル即ち「作家性」に求めた点は特に画期的である。

*3:
バーチャルyoutuber ポエムコア『ミソシタ#11』革命前夜