ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

新海誠『天気の子』――夏の終り

『天気の子』を観た。前作以上の大傑作だったので、取り急ぎべた褒めしておきたい。

  新海先生の最大の才能は、老若男女問わずどんな観客も少女に恋する少年の視点に没入させてしまう点にある。ヒロインの天野陽菜はガワだけみるとパンチが弱くて、ぶっちゃけ広告とかだとあんまし映えない。でも映画本編だと魔法のように美しくて眩しくて、一瞬で心を奪われてしまうのだよ。それはこの映画においてこの少女は徹底して彼女に恋する主人公の帆高少年の視点を通して描かれているからだ。16歳の思春期真っ盛りの少年の恋のフィルターの威力たるや神憑り的で、彼女の一挙一動すべてがファンタジーのように思えるんだけど、それはあくまでも少年の主観で、本来だったらその視界は他人と共有できる類のものではない。でも、新海先生の魔法はそれを可能にしてしまうんだよ。

 この魔法が今回存分に力を発揮できたのは、帆高少年が本当にいい奴で、いっぺんにこいつを好きになれたからだ。おかげで彼に感情移入をするのになんの障害もなかった。彼は陽菜の能力と困窮を知って、晴れ女をビジネスにすることを思いつく。もちろん彼は陽菜のビジネスパートナーとして利益は得ている。でも、その共働関係の中で、彼は一度も自分のために陽菜に祈らせることはしない。ただただ彼女のために、そして彼女が人のために能力を使うことをサポートし続ける。そして、彼女がテレビに写ったとなると、スパッと晴れ女から手を引く決断ができる。これを映画はさも当たり前のように描いてるけど、その姿勢はみてて本当に気持ちがいい。

 なんで少年がそんなことをしないかっていうと、彼の恋にとって少女の天候操作能力なんか副次的なものに過ぎないからだ。確かに天に向かって彼女が祈る姿は美しいし、それによって空から差す光の眩しさは奇跡のようだった。でも、帆高にとっては、夜のマクドで彼女がくれたビックマックのほうがよっぽど奇跡だったろうし、自分の差し入れたポテチとチキンラーメンをご馳走に変貌させる彼女の手さばきのほうが、よっぽど眩しかったろう。

 こういうところを説得力をもって描けているからこそ、「グランドエスケープ」が高らかに響くあのシークエンスが活きてくるのだ。俺はそれまでの一時間何十分で、帆高少年をいっぺんで好きになり、彼に共感し、彼の視点を抵抗なく受け入れ、そして、その視点を通して、天野陽菜に彼とともに恋をする。ここで少年は、少女に願うのだ。世界なんて狂ったっていい。きみに戻ってきてほしいのだと。これはまさしく俺の願いでもあった。俺の叫びでもあった。

  思えば、キモオタの俺は「彼女」を失ってばかりいた。俺にとっての原体験は『イリヤの空、UFOの夏』だった。これまでの読書体験の中で、あんなに主人公に感情移入したことはない。俺は浅羽少年とともに伊里野加奈に恋をし、そしてあの南の島で、浅羽少年とともに叫んだのだ。「伊里野が生きるためなら人類でも何でも滅べばいいんだ!!」*1と。しかし彼女は、まさしくこの叫びのゆえに、世界を救うために空に消えた。願いが叶うことはなかった。

 それから俺は数多の物語で数多の「彼女」を失い続けた。桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』なんか読んだ日にゃ晩飯が喉を通らなかったな。2009年には庵野がヱヴァ破でようやくこの夏から俺たちを解き放ったかに見えたが、2012年のヱヴァQで無事にまた崖から突き落とされた。いくら祈っても願っても、クソデカ綾波が横たわる海岸から、伊里野を失ったあの夏から、抜け出せることは決してなかった。

  でも、あの雨によって、ようやくその夏が終わったのだった。

  また雨が降り、東京が沈み、そして少女は力を失った。数年ぶりに出会った天野陽菜はあの坂でそれでも祈っていた。もう叶うことのない祈り、無駄な祈り、虚しい祈りだ。なのに、彼女のそんな祈りの姿は、それまでのどの場面にもまして、帆高の、そして俺の心を打った。それで帆高は陽菜に言うのだ。二人ならきっと大丈夫だと。ぶっちゃけぜんぜん大丈夫じゃない。大丈夫じゃないんだけど、でも、彼女のためにそう言い切ってみせる。たぶんこのときようやく帆高は、少年でなく青年になったのだろう。そして流れるRADWIMPSの「大丈夫」。ここでその歌詞は反則だよなあ。

  これ書いてたらまた観たくなってきたよ。レイトショーで行くかな。でも今日台風なんだよなあ。いや台風だからこそ行くべきなんかな。ううむ。

 

 

小説 天気の子 (角川文庫)

小説 天気の子 (角川文庫)

 
天気の子

天気の子