ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

ミニマ・モラリア

 青春は呪いだ。青春できなかったから呪われたのではない。青春が出来る条件がだいたい揃っていたにもかかわらず、そしてそれを実際に享受したにもかかわらず、それゆえに生きる苦しみが飛躍的に上がってしまったという経験が逃れられぬ呪縛となってしまったのだ。
 家でツイッターやってるのが結局は平安であり、図書館でひとりマックス・エルンストの画集を読んでいたことこそが俺にとっての青春だった。そう肯定できるまで、それなりに時間を要した。
 まあでも、大学生のときに人間関係らへんでさんざん失敗を重ねることが出来たのは、今となっては僥倖だったかもしれない。あれのおかげで、自分にはなにが出来てなにが出来ないかを学べたし、それによって、社会に出る前にいろんなことを諦めることが出来た。選択と集中。社会に出てからは、それなりに適切にリソースを配分できていると感じる。出来ないことは最初からある程度諦め、出来そうなことにはそれなりに力を注ぐ。その御蔭で、なんとか悪くないポジションに落ち着くことが出来た。
 人生がつまらない。今人生がたまらなくつまらないのは、たぶん、大きな失敗がもうできないと自覚して、失敗しそうな挑戦を適切に避けていることも影響しているだろう。ここくらいまでなら多分出来るはず、というところまでしか移動していない。だからどきどきわくわくがないのだろう。でも、この年になってこの地位になって、崖から落ちるマネはもうできないのだ。
 いろんな創作物を鑑賞していると、おとなになっても安全な領域を飛び越える連中がたくさん出てくる。そう生きろと言ってくる。確かに、人生を燦めかせるためには、それが一番確実な方法だろう。そして、それを作っている人たちは、現にそうしてきた大人なのだろう。でも、誰もがそう生きれるわけではない。そう生きれるわけではないのだ。
 昔は、自分だけは違うと思っていた。むしろ、安全な領域にいることが出来ない人間だと思っていた。だから、そういう創作物を、最大限の共感をもって享受していた。でも、おとなになってみると、自分もありふれた社会人に過ぎないことがわかった。そして、ありふれた社会人であることの有り難さが、今はどこまでも沁み入るのだ。だからこそ、この年になると、そういう創作物を享受するのが辛くなる。俺は、あなた方みたいに生きれるわけではないのです。この世の中の大半はそうだ。そういう生き方をつまらないと否定する権利が、どうしてあなた方にあるのですか。
 世の中には、他人に美しい夢を見せることで飯を食っている人間がいる。いいことだ。いいことなんだけど、その夢と現実との折り合いの付け方を誰も教えてはくれないのだよ。だからその間で軋轢が起こって、現実で悲惨が発生するはめになるのだ。
 俺に言わせりゃあなあ、どいつもこいつも諦めるなと言い過ぎなんだよ。どこかの時点で諦めることをひとつの美徳としてきちんと描くべきなんだ。凡人が挑戦するには上限がある。非凡な人間なら限度はないかもしれない。そして自分は非凡なのかもしれない。でも、そう信じて結局凡人だったとき、割りを食うのは自分だけなのだよな。
 自分はある年齢までは己を非凡と信じ挑戦し、そして全部失敗した。それでも諦めきれなかったが、最終的には親のたっての願いで道を変えた。あのY字路で右に行くのを諦めたとき、確かに俺の青春が終わったのだ。左に進んでからの人生は結構うまくいった。そして、そこに進んでからの人生で、それまでの青春で培ったことは、ぶっちゃけあんまり役に立たなかった。今は今の努力と勉強を積み重ね、ちゃんとそれが実ってはくれている。でも、なんというか、賽の河原で石を積んでいる気分があるのも確かだ。あれまでの十年間、必死になって積み重ねたものが一瞬で瓦解して、また一から新しい石を積み直していることに、どうしても虚しさを抱かずにはいられないのだ。
 勝とうと思えば負けることもある。でも、はじめから勝とうと思わなければ、負けることもないケースもある。後者も確固たる生き方なのだ。いかに美しい夢を見ているときでさえ、それを否定してしまうと、きっと後で自分に帰ってくる。