ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

melancholy, around the world

 大学前駅に着いたとき、時刻は五時を回っていた。改札を出ると、授業の終わった学生の群れが、まるで何の悩みもないみたいに笑って話し合いながら、いまさっき俺が出てきた改札にみんな吸い込まれていった。その群れは駅の出口を抜けても、大学へと続く細く長い道をどこまで行っても途切れない。みんな自分が世界の中心みたく思っているのか、誰も道を譲ったりしないので、仕方ないから俺は道の端を、身をちぢこませてこそこそ歩く。やがて大学の門に着く。警備員が、交通ルールを守って帰ってくださいと声を上げている。並木道を抜け、横道に入り、図書館の前に着いたとき、もうすでに一本の映画を観終えたような気分になった。

 要約。今日は有給。正午に起きて、家で飯食って、駅で金をおろして、メロンブックスで同人誌を買って、某大学図書館でアルトマンの『ロング・グッドバイ』を観た。

 昨夜はもっと早く寝るつもりだったが、ダラダラとネットサーフィンをするうちに、いつのまにか0時を回っていた。エイヤッと気合を入れてPCの電源を切り、山のように積もった洗濯物のうち、まず三分の二を洗濯機にぶち込み、液体洗剤を惜しみなく注いで電源を入れた。終わるまでたぶん四十分くらい。その間に風呂とトイレの掃除をし、それから軽くシャワーを浴びた。体を拭いて耳を綿棒で掃除していたらちょうど洗濯が終わった。ベランダにつながる窓を開けたら、冷気がひゅっと入ってきて、それから、雲ひとつないきれいな空が見えた。無名のかたちをした月と、いくつかの星がまたたいていた。ここは田舎だ。夜になると、これくらいの星は見える。
 それからもう一度洗濯をして、結局眠ったのは午前三時。どんな夢を見たのかは、たぶん、覚えていない。たぶん、というのは訳がある。図書館だか書店だかで、複数掛けの椅子に座っていたら、そこに座っていたカップルの女が何故か俺にもたれてくるという夢を見て、それが頭にこびりついているのだが、果たしてそれを見たのは一昨日なのか昨日なのか今日なのか判然としないのだ。それにしてもあの夢は、何か知らんが強烈だった。今までに見た夢の中でも十指に入るほどエロかった。

 前述の通り、午前三時に寝た。そっからいったん午前五時に目が覚めた。それからOFFにし忘れたスマホの目覚ましに午前六時に起こされた。そのあと午前八時にもっかい目が覚めて、最終的にちゃんと起きたのは正午だった。
 これを睡眠と呼んでいいのだろうかね。

 朝/昼飯。近所のロヂャースで買った餃子。近所のロヂャースで買った豆腐。近所のロヂャースで買った麻婆豆腐の元。近所のロヂャースで買った米。近所のロヂャースで買った納豆。近所のロヂャースで買ったキムチ。近所のロヂャースが潰れたら、俺はどうなってしまうのだろう。

 飯食って皿洗って昨晩干した洗濯物を取り込んだら、もう午後三時を回っていた。自由に使える残り時間を指折り数え、余りに非情な現実に打ちのめされる。休みが一日だけなんて人権侵害だ。アマルティア・センに訴えたら、きっと人間の安全保障に反していると声を上げてくれるだろう。確かに今の会社はそれなりに休める方だ。しかし、それなりに休めるのが何だ。こちとら大学生の頃には春休みが三ヶ月半くらいあったんだぞ。それどころじゃねえ。学部四年の頃は授業が週に二コマしかなくて、早々に院に進学も決まっていたので、年中休みみたいなもんだった。それ以前と以後には無職をやって、終わりのない休暇が延々と続いた。普通の人間ならもう休みは十分と音を上げるような人生だろうが、俺は違う。俺は無限に休みがほしい。無限に休みがほしいけれど、でも無限には生きたくない。無限の休みと有限の生、このアポリアを突破する唯一の道が死だ。死こそ解決。死こそは解決。そんなことを考えながら、着替えてダウンジャケットを着て手袋をつけて駅に向かった。

 この前GUで1490円した手袋が非常に強く、この12月に自転車に乗ってもまったく寒くない。本当にありがたい。ここの冬もなかなか厳しい。

 最寄りの駅から某駅に行った。某駅は非常にでかく、平日なのに人がわんさかいた。こいつらみんな有給なのかな。世の中には有給が溢れているな。
 駅のATMコーナーで金をドサッとおろした。今度の会社の忘年会で幹事を任されているのだが、集金した金を紛失する可能性がゼロではないため、念の為に当日の予算と同額の金をおろして財布に入れた。これすらも紛失した場合は腹を切ろう。あるいはイランで鳥葬されよう。

 メロンブックスは駅から徒歩数分。便利でいい。しかし前職では職場から徒歩数分だった。あの頃はその点では最高だったな。非正規だったけど。
 買ったのはけむほこ先生の『a girl like you』。これに関してはいつか稿を改めてきちんと書きたい。ただ、今のところ言えるのは、この世にはありふれた日常を描くことを通して世界の秘密を開示できる作家というのが存在して、先生は紛れもなくその一員である、ということ。

 特急とかの指定席を買う券売機、マジで難易度が高すぎて何をどうすれば目的のものが買えるのか分からん。国鉄ゆるさねえ。

 地下鉄で某大学に向かう。
 駅のホームに突っ立ってスマホでパルを呼んでいたら、リーマン風の男女がこっちに来た。男がここに並ぼうと言う。女が答える。ここ女性専用車両のとこですよ、と。それでそそくさと移動した俺を、その女が笑ったように思うのは、単に俺が病んでるからかね。

 この場所に住むと決めたとき、この大学の図書館の利用者カードを作ろうと決めた。年間千円で本読放題映画観放題。貸出の冊数は厳しいし、テスト期間には部外者の利用は禁止されるけど、それでも本当にありがたい。この場所はとても豊かだけれど、でも、文化的にはかなり不毛だ。どこに行ってもせんだいメディアテークみたいな気合の入った文化施設が見当たらない。古本屋もない。24時間やってる本屋もない。もしもここがなかったら、休日は家にこもるしかなかっただろう。

 昔は、それでも良かったんだ。中高生とか大学生の頃は、ネットサーフィンでいくらでも時間が潰せた。引きこもってたときは一日中VIPでクソスレを立てていた。それで一日が終わっても満足だった。学部生の頃は大学のPC室に籠もって、大学のつよつよ回線でニコニコ動画を逍遥して毎日を潰していた。それでも満足だった。でも、今では、ネットをして一日を潰すことに我慢ができなくなってきた。今となっては、ネットサーフィンと言っても、観に行くサイトや動画はだいたい決まっている。毎日同じところで同じような内容が更新されているのを淡々と確認するだけ。たまに、強い閉塞感を感じ、叫び出しそうになる。耐えられない。

 年をとるということは、結局、森羅万象に飽きていくということだ。むかしあんなに眩しかったものも、何度も何度も使っていくと、すり減って輝きが失われてしまう。

 もうひとまわりふたまわり年をとってしまったら、逆にそんな輝きのないものに愛着を抱くようになるのかね。

 大学を歩く。母校より少し小さくて、母校よりも校舎が地味だ。母校には計六年通った。ここには、たぶん休日のたびに、あと何十年と通うことになるだろう。果たしてお迎えがきたときに、どちらを懐かしく感じるだろうか。そんなことを考えたりして。

 前述の通り、アルトマンの『ロング・グッドバイ』を観た。
 エリオット・グールドが壁や机や地面やドアにマッチをシュッと擦り付けると、どこだろうとパッと火がつく。まるで魔法のようだった。
 あと、ジョン・ウィリアムズの主題歌が幾度も編曲を変えて全編に渡り鳴り響いていたのだが、これはあれかね、『地下室のメロディー』を意識したんかね。

 マーロウみたいなおとなになりたかったなあ。自由で、真に独立した人間になりたかった。

 図書館を出る。駅へと向かう。午後七時を過ぎた大学は閑散としていて、出口へと向かう学生の数も片手で数えられるほどだった。空は昨晩のように澄んでいた。入口付近では、半分散った赤い並木が、道なりに点々と灯る小さなライトに照らされて、妖しい光を湛えていた。吐く息が白い。たぶん、俺の前を歩くあの若いにーちゃんの息も、俺と同じくらい白いのだろう。落ち葉を踏みしめるとカサカサ音がした。笑い声のようにも、泣き声のようにも聞こえた。