ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

不眠無不眠無不眠無無

 眠れない。激務とストレスにより眠れない。最近は睡眠不足が続くと心臓がキューッと締まるような痛みが一瞬発生したりする。不整脈だろうか。そのうち致死性不整脈やら心不全やらでぽっくり死ねるんだろうか。早いとこ死んでこんな世の中とはオサラバしたいものだが、奨学金の返済がまだ残っている。俺は機関保証に入ってるので、学生支援機構の奨学金の場合、当人が死んだ場合書類かなんか書けば家族の返済は不要のはずだが、汚い大人はどんな手管を駆使して遺族を追い詰めるかわからない。自分の負債だけはすべて返しきってから死にたいものだ。貯金のペースや今後のキャリアパスを考慮すれば、あと四五年で完済できるはず。そしたら、とりあえずは自由だ。父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました。

 

 何かで読んだのだが、ブラックホールに吸い込まれそうになると、吸い込まれる当人の時間感覚が無限に引き伸ばされるため、当人はいつまで経っても吸い込まれることを知覚出来ないのだとか。もしも、死がそのようなものだったらどうしようかと時おり考える。はやく無に帰りたいのだが、当人の感覚として無が無限に遅延され、いつまで経っても到来することがない。まるで、終末を信じては裏切られてきた原始キリスト教団みたいだ。いつまで経っても終わりが来ない。それにどう理屈をつけるか。パウロがその課題を頑張っちゃったものだから、あのカルト宗教は世界を制してしまった。何の話だっけ。まあ、なんでもいいや。

 

 さいきん、時間感覚がだいぶ加速している気がする。もう今年も五月だ。五月ももうすぐ半ば、気づけば六月になり、今年も折り返し地点に差し掛かる。去年の頭のことを思い出す。当時はけもフレが一大ブームを巻き起こし、オタク全員がサーかばの冒険を固唾をのんで見守っていた。俺もそうだった。業務が爆発してチーム全員で会社に泊まり込んでいる時、ちょうどけもフレの最終回が放送され、ツイッターのトレンドにかばんちゃんの手の先が黒いってことが入って観てない俺はなんじゃそらと思ったのをよく覚えている。ちょうどその頃、このちんけなブログに『空になる青』に関する感想を書いたところ、作者当人の知り合いという方がコメントを書いてくださった。それからまた、ちょうど同じ時期、ネットの一部のオタクの間ではケツピンが凄まじい旋風を巻き起こしていた。俺も毎話毎話楽しみにしていた。そこいらの底辺地上波よりも、よっぽど影響が大きかった。
 そして、今年になった。けもフレは最大の功労者たるたつき監督の降板騒動により完全に瓦解し、いまでは見る影もない。たつき監督本人の活躍の場が失われていないことが救出が、けもフレという、百年続くはずのIPがたった半年ほどで植物状態に陥ってしまったのは、本当にむごいとしか言いようがない。けもフレが実体のない企業コラボで辛うじて食いつなぐ一方で、去年けもフレと比較されてさんざん馬鹿にされていたウマ娘が良作として評価されているのをみると、なんとも言えない感情が湧いてくる。でもまあ、けもフレはまだマシな方だ。ケツピンに至ってはクソ運営によって全削除の憂き目にあった。これだけは一生許さねえぞ川上聞いてるか。
 そして、秋山晟先生の新作を、俺達は未だに拝めぬままだ。
 今年になってバーチューバーが一大センセーションを巻き起こしている。猫も杓子もバーチューバー。俺もお前もバーチューバー。のらのらしてきた。まったくも。でも、このブームも永遠に続くわけではないだろう。月ノ美兎がいつかの配信で、十年後、そういえば月ノ美兎っていたなあと思いだしてくれれば満足だ、みたいなことを言っていた。そう、みんな分かっているのだ。このブームを担っているバーチューバーたち、特に個人勢は、おそらく、2000年くらいからのインターネットにおけるめまぐるしい文化の興亡を見てきた連中なのだ。一時期あれだけの覇権を握ったエロゲー文化も、いまではもう型月以外は死に体だ。KanonAirも、もう墓碑になっている。シスプリを君は忘れていないか? 先行者って聞いたことあるか? 絶望の世界はいま誰が読む? ネカマ裁判に新規読者がつくことは、もう、きっとない。エキサイト、グー、インフォシーク。すべてはもう、過去の遺物だ。
 今これだけの熱を放っているものも、いつかは冷めて、死んでしまう。宇宙の熱的死はきっと真理だ。俺たちはインターネットで、同じものをずっと見てきた。きっとこのバーチューバーブームも、そう遠くない内に、熱的死を迎え、単なる過去になるだろう。別のことで同じくらい熱狂できることはあるだろうが、これにこれだけ熱狂できるのは、きっと、いまだけなのだ。そして、それを当人たちもきっと分かっている。だからこそ、これほどまでに、彼等彼女らは行き急ぐように駆け抜けているのだ。その先が虚無であると知っていても。

 

 なぜ何も無いのではなく、何かが在るのか。これが哲学の根本的な問だと、確かハイデガーだかが言っていた。シオランのような厭世主義者も、まったく同じ問を立てるだろう。しかし、両者の意味するところは全く違う。そして、そのどちらに与するかで、人間はきっとはっきり二分されるのだ。

 

 今も昔も、家にこもってネットばっかりしている。そうやって生きている。本当にネットばっかりしていたこともあるが、いまでは余暇にネットばっかりしている。機械の前に座って、何も話さず、何時間も何時間も独りで過ごしている。なのに、目の前の画面では何もかもが急激に変化し、凄まじい勢いで古いものが死に新しいものが生まれる。
 自分はネット中毒で、そして記憶中毒だ。どちらも現実に確固として存在するものではない。現実と無、あるいは現実と虚構のあいまに存在するものだ。自分はきっと無になりたい。でも、現実しか知らないから、現実を失うのがきっと恐い。だから、そんな曖昧なものばかりに惹かれるのかもしれない。
 大きなお世話だよバカヤロー。

 

 せめて両親を送るまで、自殺せずに生きれるだろうか。今の調子ならまあ何とかなりそうだけど、でも、人生にどんな落とし穴があるか、本当にわからないのだ。
 これまで何度もどん底を経験してきた。おかげでずいぶんタフになったかもしれない。でも、同時に、人生の苦難には本当に限りがないことも知っている。どんなに順調に行っていると思っても、どこで突き落とされるかわからない。

 

エロゲー文化研究概論』なんかを夜中に読んだものだから、ずいぶんとセンチメンタルになってしまった。思春期の頃、Kanonの二次創作小説を死ぬほど読みまくったことが、自分にとって少なからぬ文化的影響を与えている気がする。そして、結局、二次創作ばかりに耽溺し、Kanonそのものをプレイすることはなかった。きっと、今後もそうだろう。自分は創作物そのものよりも、そこから発生した二次創作や批評に惹かれるフシがあるが、その起源はやっぱり、そこにあるのだろうかね。

 

 バーチューバーブームに既視感があったのだが、あれだな、むかしVIPで流行った「新ジャンル」だ。「素直ヒート」、「素直クール」、「ツンデロ」、「ゴムフェラ」、エトセトラ。

 

 どんなに過去を懐かしんでも、明日は容赦なくやってくる。明日は労働。明後日も労働。労働労働労働だ。だからみんな死んでしまえばいいのに。

 

 絵師、ホームページが死滅して、みんなピクシブに統合された。喜ぶべきか、悲しむべきか。上下ミラクル荘が好きでした。もう消えてしまったけんども。

 

 明日休みになんねえかなあ。