ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

お祈りアピールの偽善性について

 郵便受けを見てみると、むかし通っていた教会の牧師から年賀状が届いていた。肉筆で「お元気ですか。お祈りしています」と記されていた。正月早々、胸糞悪い気ぶんになった。

 

「お祈りしています」とはクリスチャンがよくつかうフレーズだ。自分はあなたのおとを気にかけてますよ、思いやってますよ、というアピールをしたい時に重宝されている。自分が311で被災した時には、色んな連中から祈ってますよアピールを受けた。なんて無責任な言葉だろうと、その頃から嫌悪を抱き始めた。

 

 あなたのことを祈ってます。だから何だと言うのだろう。心のなかで、あるいは口に出して、十秒二十秒くらい俺のことを話題に上げるだけ。それだけで、クリスチャンは何かを成し遂げた気になってしまう。でも、そんなの何もしていないのと同じだ。

 

 自分のことを本当に思いやってくれる方々もいた。そういう方は、決まって祈りではなく、実際の行動でその想いを示してくれた。祈っています、という人は、べつに相手のことを大して思ってなどいない。自分は相手に実際に何もするつもりはない。でも、それだと流石にあれなので、一応相手のことを神に祈る。祈ったという行為は、相手にとっては何の役にも立たないものだ。たとえそれで神が相手に何かを益したとしても、その功績は神のものであって、人のものではない。その功績を自分に帰すことは、とんでもない傲慢じゃないのか。

 

 そういえば、イエスはこんなことを言っていた。

 

自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。(……)また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

 

マタイ6:1-6

 

 さすがに良いこと言うじゃねえか。

 

 俺も祈ること自体が悪いとは言わない。そこまで否定したら、敬愛するヴェーユや教父、神秘家の面々も否定することになる。ただ、祈るということは、ここにある通り、他人に対するアピールに使ってはならないものなのだ。祈りたいのなら、神と自分だけでひっそりとやるべきだ。それを、自分をアピールするための手段として用いることなんて、あってはならないことじゃないのか。

 

 件の牧師の年賀状を握りつぶし、ゴミ箱に捨てた。三が日はゴミの回収はない。あの連中に災いあれと、俺は久しぶりに神に祈った。