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ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

今日という日に、ゴジラについて――あるいは、不幸にも『シン・ゴジラ』が傑作となってしまった件について

映画 シン・ゴジラ

ゴー! ゴー! 123 3456
345678 ギャー!
怪獣サマのお通りだ
カッコよくなんでも ブッ飛ばせ!
ゴーゴー ゴジラ放射能
ミ ミ ミニラも ポーッポーポ
ドッスン ガッタン ドッスン ガッタン
みんなこわしてしまうけど
ごめんよ かんべん おれたちも
生きてゆくのは きびしいさ

 

佐々木利里「怪獣マーチ」*1

 

 

 ここ最近の『シン・ゴジラ』の賞レースでの無双っぷりは本当に痛快だ。キネマ旬報での第2位と脚本賞を皮切りに、ブルーリボン賞日本アカデミー賞でグランプリを掻っ攫い、とうとう芸術選奨映画部門の文部科学大臣賞すら手にしてしまった。官民を問わず、あらゆる批評眼がこの作品を讃えている。当然すぎるほど当然だ。少なくとも大作娯楽邦画というジャンルに限れば、21世紀中にこれを超える映画が出てくるとは到底思えない。間違いなく、奇蹟の作品だと思う。しかし、その奇蹟は、大量の死と放射能の恐怖の上に成り立っている。そう、初代『ゴジラ』のように。
 初代『ゴジラ』が大戦と原爆の申し子であることは、今更言うまでもない。ゴジラを生み出したモンスターマスター本多猪四郎監督は、八年間も従軍し、原爆投下直後の広島を実際に目にしている。彼は戦争と原爆の恐怖と苦しみを知り尽くしていた。そんな彼が円谷英二という天才と組んで作り出した初代『ゴジラ』は、単なる映画という範疇を超えた、恐るべき何かである。特にゴジラの造形たるや凄まじい。これは単なる怪獣ではない。俺には、このゴジラが、当時に日本に広く残っていた大戦と原爆への恐怖や、それがもたらした苦しみ、悲しみ、怒りを一つのかたちに凝縮したもののように思えるのだ。そして、この映画は、最後にそのゴジラを殺す。オキシジェン・デストロイヤーに殺される直前、ゴジラは海面に姿を現し、耳をつんざくような断末魔を上げ、そして海に溶けてゆく。この断末魔を聞いたとき、俺は心が張り裂けんばかりになり、涙がとめどなく流れた。そして思った。これはまるで犠牲の儀式だと。そう、もしかしたら、初代『ゴジラ』は、大戦と原爆にまつわるあらゆる感情を背負ったゴジラという生贄を殺すことによって、先の大戦と1954年という現在の間に、一つの区切りをつけようとした試みだったのかもしれない。だから、ゴジラは本来的には、極めて悲劇的な、呪われた、そしてそれゆえに、何か聖なる存在だったように思うのだ。
 しかし、このような恐怖と悲しみの受肉としてのゴジラは、初代以降、姿を消した。代わりに現れたのが、娯楽王、大スター、子供の味方であるゴジラだ。本多猪四郎監督が次にメガホンをとった『キングコング対ゴジラ』は、何と徹頭徹尾コメディ映画である。ここに出てくるゴジラは、戦争や原爆というものを、全くとは言わないが、ほとんど担っていないように思う。同じく大スターのキングコングと、時にコミカルに、時にガチで取っ組み合い、壮絶な怪獣プロレスを繰り広げるゴジラの姿は、どこか、すごく楽しげで、初代の後に見ると、救われたような気持ちになる。
 キンゴジ以降、ゴジラは徹頭徹尾娯楽の道を進む。対象年齢もどんどん低くなり、初代が背負っていた影のようなものは消えてゆく。俺たちのような拗らせ特オタからすると、これは一種の堕落のように思える。でも、本多監督は、それをよしとしていたように思う。その証拠に、彼は『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』を撮っているのだ。
 この映画の中では、シリーズで唯一、この現実世界と同じく、ゴジラは虚構の存在として描かれている。主人公の一郎は、怪獣をこよなく愛する少年だ。彼は同級生からいじめられ、家に帰っても両親は仕事でいない。実に孤独な存在である。そんな彼を支えるのは、おもちゃ作りを生業とする発明おじさんと、夢に出てくる怪獣たちだ。一郎は、夢の中のゴジラやミニラから力を得て、現実の苦難に負けない、たくましい少年に成長してゆく。そんな物語である。
 この映画は明らかに、本多監督の願いによって作られているように思う。自分の作った怪獣を映画を観た子供たちが、たくましく元気に育って欲しいという祈りが、画面に漲っているように思う。そして同時に、これは娯楽王、子供のヒーローたるゴジラを、モンスターマスターたる本多監督本人がよしとした宣言であるようにも感じる。確かに、悲劇的な性格を失ったが故に、ゴジラからある種の聖性が失われはした。でも、その代わり、ゴジラはとても幸福な存在へと生まれ変わったのだ。一人息子を時に厳しく、でも時には優しく育てるゴジラ。多くの仲間と共闘して、宇宙の侵略者をやっつけるゴジラゴジラはこれでいいのだと、本多監督は、この作品で肯定しようとしたのではないか。少なくとも、自分にはそう感じられるのだ。
 だが、いくら怪獣王のゴジラといえども、時代の変化には勝てなかった。いわゆるミレニアムシリーズのゴジラは、何というか、目を背けたくなるような痛々しさがあった。ゴジラは第二作から早々に、固有の源泉である大戦と原爆から、ある程度決別し、娯楽王となった。しかし、21世紀に入り、邦画という娯楽自体が衰退してしまったのだ。そこで東宝は何とかして、初代ゴジラを再び銀幕に登場させようとした。あの悲しくも美しい破壊神が舞い戻りさえすれば、どんな人間でも心を奪られることは明白だった。でも、どうしても出来なかった。現代には、ゴジラが背負うべき災禍は存在しなかったからだ。確かに、現代日本も多くの災厄を経験した。テロや震災、いじめ、自殺、放射能関係でも悲惨な事件があった。しかし、それらはいずれも、初代ゴジラが背負うものではなかったのだ。そう、現代は確かに悲惨な時代ではあるが、しかし、かの大戦と原爆に比肩しうるような虐殺と放射能の恐怖は存在しない。だから、初代ゴジラは、現代には居場所がないのである。それゆえ、初代ゴジラを再臨させようとするあらゆる試みは失敗した。唯一、川本三郎ゴジラ英霊論に依拠したであろうGMKがかなり見事な成果を見せたが、しかし、それも本当の意味では現代の、今を生きる俺たちの物語ではなかったように思う。そう、21世紀の日本は、ゴジラを必要としてはいなかったのだ。だから、ゴジラに幕が引かれることとなった。『ゴジラFINALWARS』をもって。
 この映画は文字通り賛否両論を呼んだ問題作だが、俺は100%支持したい。何よりも素晴らしいのが、『オール怪獣大進撃』へのリスペクトに溢れているところだ。この作品でも、オール怪獣同様に、少年がミニラと出会い(ただしこっちは現実に、だが)、友情を深め、成長してゆく。そして作品全体が、娯楽としてのゴジラへの賛美に満ち溢れているのだ。この映画のゴジラは悲しい物語など一切背負っていない。ゴジラとは、宇宙で最強の怪獣王であり、でも、最後の最後に人情味を見せる愛すべき存在である。ラスト、宇宙の侵略者を退けたゴジラは人間にも牙をむこうとする。しかし、そんなゴジラの前にミニラが立ちはだかる。ミニラは少年との交友の中で、人間が守るべき存在であると学んだのだ。それでゴジラは人間に背を向け、我が子と共に、ゆっくりと海に帰ってゆく。そして最後に、雄々しく咆哮する。その声はどこまでも力強く、初代ゴジラの断末魔に満ちていた苦しみ、悲しみは一切含まれていない。ゴジラは、最後の最後に、どんな悲劇も背負わぬ幸福な存在として、海に帰ったのだ。長年娯楽邦画を牽引した怪獣王にふさわしい、どこまでも眩しい最後だと思った。そしてその最後は同時に、今の日本にはゴジラが背負うべき災禍が存在しないことも意味していた。しあわせな幕引きだと思った。
 しあわせな幕引きのはずだったのに。
 2011年の今日、かの悲劇が起こってしまった。震災と津波によって、無辜の命が数え切れぬほど奪われた。福島の原発事故により、多くの方々が今も故郷に戻れずにいる。日本は再び、大量の死と放射能の恐怖にさらされることになってしまったのだ。それは、ゴジラが本来背負うべき悲劇が復活してしまったことを意味する。そして去年、『シン・ゴジラ』が作られてしまった。これはまさしく、真の意味での初代『ゴジラ』の再臨である。そして『シン・ゴジラ』は、初代『ゴジラ』に比肩しうる未曽有の大傑作となった。そのことは嬉しい。本当に嬉しい。でも、今日だけは、そのことを素直に喜べないのだ。
 志樹逸馬という詩人がいた。彼は生涯ハンセン病に苦しんだが、その病苦を源泉として、多くのうつくしい詩をものした。しかし、この詩人の死に際して、彼の友人はこう言ったという。詩なんかひとつも出来なくていいから、彼には元気で長生きしてほしかった、と。
 なんとなく、それに似た感情を、今の俺も抱いている。

 

 

 

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*1:名曲。