ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

泉図書館にまつわる自分語り

 その朝、唐突に学校をサボろうと決めた。確か高校の決まりでは、三分の二以上出席していれば進級・卒業できるはずだった。一日くらいサボっても死にはしない。なら今日はサボろう。そう決めた。
 何食わぬ顔で朝食を食べ、何食わぬ顔で弁当を受け取る。まずは薄手の私服を着て、その上から制服を着る。行ってきます、行ってらっしゃい。誰もいない自転車置き場で素早く制服を脱ぎ、空の鞄に詰める。準備完了だ。気温は程よく涼しくて、空は抜けるように青い。絶好のサイクリング日和だ。どこへ行こう。遠くがいい。遠くて、学校をサボった甲斐があったなと実感できるところがいい。なら泉だ。家から泉まで自転車で二時間。途中には魅力的な風景がたくさんある。ゆっくりと走りながら色んなものを見て、それから、泉図書館で何か観るなり読むなりしよう。
 あのとき住んでいた家から泉図書館まで、どのような道を通って走ったのか、今はもう大分忘れてしまった。まずは仙台まで行って、やたらと緑の多いところをまっすぐ行ったところまでは辛うじて覚えているが、そこからが曖昧だ。アスファルトで舗装された崖の横を走った記憶があるが、もしかしたら秋保へ行く道と混ざっているかもしれない。確か、途中にドン・キホーテがあった。坂の激しいところがあって、郵便局とグリーン・カレーの店があった。春にフリマが開催される大きな公園を横切った気がする。それらは全て、今やおぼろげだが、その時に覚えた感情は、今もかなり鮮明に残っている。どんな風景か覚えてなくても、そのときの空気の感じ、風の香り、心地よい疲れは失われずにいる。とにかく、道中は楽しかった。他の連中が授業を受けているのに、自分はひとり自転車をこいで、自分の行きたい場所に向かっている。堪らなく自由だった。
 やがて、ベガルタ仙台のホームスタジアムが目に入る。いつ見てもデカい。それを過ぎると牛丼屋があり、そしてこども宇宙館が目に入る。左に曲がる。泉図書館に到着だ。時刻は昼前。ようやく着いた。
 泉図書館には数えるほどしか行ったことがない。でも、割とコアな本を読んだことは覚えている。たとえば、カール・バルトの『ローマ書』に初めて挑戦したのはここだった。今に至るまでこの本に何度も挑んでは、何度も敗れている。最初にその難渋さに打ち負かされたのは、この図書館の机でだった。また、ハンス・ヨナスの『グノーシスの宗教』を通して、グノーシス主義なるものに出会ったのも、この図書館でだった。後に自分はシモーヌ・ヴェーユに傾倒し、大学では古代末期の思想を専攻することになるが、その端緒はもしかしたら、この一冊との出会いにあったのかもしれない。
 でも、何よりも泉図書館は、フェリーニの『道』を初めて観た場所として、自分の中に刻み込まれている。観たのは、そう、ちょうどまさに学校をサボったあの日だった。そのとき自分がこの作品から受け取ったものは、あまりに大きく、眩しくて、とても俺の拙い文章で伝えきれやしない。ただ、何よりも、「石ころに意味が無ければ、空に輝く星にも意味が無い」という台詞が、当時の自分に突き刺さったことだけは、とりあえず書き残しておきたい。
 夕方になった。帰るのにまた二時間。あまり遅くなると疑われるし、そろそろ出ることにする。図書館から出ると、こども宇宙館が見える。そういえば、むかし家族と宇宙館に行ったことがあったっけ。確かそこで、俺は月の石を触った。アポロだか探査機だかが、あの月から持ち帰った本物の石を。ふと顔を上げると、夕暮れの空に月が浮かんでいた。昔と今が、天と地が、ゆるやかに交差し、絡み合った。今日はいい日だ。そう思った。そして今でも、そう思っている。

 

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