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ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

こいずみまり『ガーデンオブエデン』――再生と暗夜

漫画

※以下ではこいずみまり『ガーデンオブエデン』の内容を盛大にネタバレしています。未読の方は回れ右。

※いつもに増して基地外度が高い記事になってます。怖い人は回れ右。

※この記事の姉妹編みたいな内容になってます。興味のある方は是非覗いてみてください。

lacondizioneoperaia.hateblo.jp

 

 

 

生命それ自身は決して死なない。死ぬのはただ、個々の生きものだけである。個体の死は、生命を区分し、更新する。死ぬということは転化を可能にするという意味をもっている。死は生の反対ではなくて、生殖および出生に対立するものである。出生と死とはあたかも生命の表裏両面といった関係にあるのであって、論理的に互いに排除しあう反対命題ではない。生命とは出生と死である。このような生命が、われわれの真のテーマである。

 

ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカー『ゲシュタルトクライス』*1

 

 

 うつくしい装丁に、まず惹かれた。花咲く野の上に、ひとりの乙女が横たわっている。その手は所在なさげに広げられ、そのかんばせには、仄かな恍惚が差している。とても穏やかで幸福そうな絵なのに、なぜか、死の臭いがした。その絵がミレイの名画「オフィーリア」を下敷きにしていると不勉強な自分が知ったのは、だいぶ後になってから。きっと、本作の表紙の女性も、オフィーリアと同じく、生と死の狭間でたゆたっているのだろう。
 生と死。この『ガーデンオブエデン』という作品を要約するならば、これ以外にはない。本作は女性の名を冠した三つの掌編・短編から構成されている。全て、表題に名を冠された女性が死の問題に直面する物語だ。さまざまなかたちで死なるものに相対した彼女らは、「ガーデンオブエデン」という妖しい雑貨屋に導かれる。そこはこの世ならざる場所であり、また同時に、彼女らが真実と救いを与えられる場所である。彼女らはそして、死を受け入れ、克服し、再び生に向き合う。
 以下では、この蠱惑的な作品の中から、その死生観と芸術論を一部ピックアップして、自分なりに妄想してみることにしたい。本作では特異な死生観と芸術論が統合され、それが物語として見事に昇華されている。その真髄に、ほんの少しでも近づくことが出来ればと思う。

 まず、本作の死生観について素描したい。劇中の世界では、人間は死ぬと生まれ変わるとされている。そして、その輪廻、再生が、極めて肯定的に、人間に救いをもたらすものとして描かれているのだ。「keiko」という物語では、戦争で死んだ少女が、家族ごと現代に生まれ変わっていることを知らされ、心から喜ぶ場面があるが、これなどは最たる例であろう。人間は死ぬと生まれ変わるし、生まれ変わらなければならない。それは摂理や運命だからという理由ではなく、きっと、新しい生で新しい喜びに出会わなければならないからだと、わたしは読んだ。
 素人の意見であるが、これは伝統的な輪廻・転生観からすると、なかなかに特異であると感じる。そもそもサンスクリット語で「輪廻」を意味するsamsaraは「彷徨う」を意味するsam-srに由来する*2ことから分かるように、輪廻とは本来、苦役だったのではないか。佛教思想にとって輪廻とは、自らの業がもたらす彷徨いの状態であり、覚者となることでそこから解脱することが目指されていた。また、ニーチェ永劫回帰思想においても、同じ生を無限に繰り返すことは、虚しく、また嘔吐感を伴うものとされていた*3。彼は最終的に、有名な「よし、それならば、もう一度!」という決心をもって、無限に生を反復する自らの運命を肯定する。しかし、それは運命が愛すべきものだからではない。呪わしき運命をも愛する力を獲得することを、彼はきっと目指していたのだと思う。
 以上瞥見したように、伝統的な輪廻・再生の思想では、生を繰り返すことが否定的に捉えられていたように思う。それも無理からぬ話だ。生というものは多くの苦難や悲しみや不完全さに満ちている。それを延々と繰り返すとなると、うんざりするのも無理はない。
 しかし、本作の作者のこいずみまりは、そうはならない。彼女は生を延々と、恐らく無限に繰り返すことを、喜びをもって描きだしている。劇中の人間は、この世での自らの生が未来永劫に渡って再生することを自覚することにより、救いを得るのだ。この根底には、こいずみまりの生命なるものに対する絶対的な肯定の姿勢があるように思う。彼女はたぶん、人生の酸いも甘いも知り尽くしている。人生がどうしようもないことでいっぱいだと知っている。それでも、彼女はきっと生きることを愛しているのだ。たとえしんどいことが沢山あろうとも、この世界で生きてゆきたいと願っているのだ。そう思って劇中の輪廻の思想を再考してみると、そこに大いなるものが隠されていることに気付く。
 劇中の世界では、人間は、出生し、死に、再生するというプロセスを無限に繰り返すものと思われる。そこにおいて、死は決して絶対的な終わりではない。それはむしろ、新しい生へと人間を導く契機に過ぎないのである。それゆえ、死は生と再生に決定的に従属しており、出生・死・再生という一連のプロセスは、死も含め、喜ばしき生を産みだすためのものとなろう。このようなプロセス全体を、きっとヴァイツゼッカーなら「生命」と呼んだ。生と死の両方を包括する生命の大いなる営み。それはまた、芸術の根源でもあるのではないか。

 ということで、お次は本作の芸術論について述べてゆきたい。その際、「keiko」の登場人物である坂井真紀が美大を目指して浪人していた際のエピソードを手がかりとしたい。それは以下のようなものである。
 美大受験に失敗した真紀は、自分が暗い穴に憑りつかれているように感じる。彼はそれを死の世界への入り口であると解していた。彼はそれに引きずられ、漠然と自分は死ぬのではないかと思っていた。そして描く絵もすべて、その穴をモチーフにした暗いものばかりであった。ある日、眠ろうとした彼の前に、暗い穴がぽっかりと開いた。そのまま彼は穴に吸い込まれ、昏睡状態に陥る。しかし二週間して、彼は目覚めた。そして、あたたかく眩い絵ばかり描くようになり、高い評価を得る。
 ここでは、真紀がいかにして自分自身の作風を確立させ、本当の作品を生み出せるようになったかが描かれている。そして、その創作のプロセスが、そのまま、生・死・再生という生命の大いなる過程と重ね合わされていることは、特筆に値しよう。彼は、死と再生とを疑似体験することにより、それらを包括する生命そのものに、恐らく触れた。彼はそれを、眩しく、あたたかいものと感じた。そして、それを自らの創作の源泉としたのである。つまり、我々の命を生み出し、支えるものは同時に、我々の芸術をも生み出しているのだ。
 そして、その生命そのものに至る道程において、暗い穴に憑りつかれる時期を経なければならなかったことにも注目せねばならない。精神史においては、真理に至る過程において、人間はある種の暗闇を経験することがしばしば説かれてきた。たとえば十字架の聖ヨハネの教説においては、霊魂が神との合一を目指す場合、必ずその道程において苦痛を伴う時期を経るとされている。これをかの聖人は「暗夜」と呼んだ。この暗夜は、神の卓越性が霊魂の能力を遥かに超越しているが故に生じる。それはあたかも、太陽が人間の眼を焼くようなものである。しかし、その暗闇に耐え、それを乗り越えるならば、霊魂はついに神へと至ることが出来るのだ。
 恐らくこれと同様のことを、真紀も体験したのだろう。彼は芸術の根源を目指していた。その根源とは生命そのものである。しかし、生命には、生のみならず、死も含まれている。それゆえ、何かを本当に生み出そうとするならば、人は死の暗闇と対峙しなければならないのだ。彼が暗い穴に憑りつかれていた時期は、まさしくかの聖人が説いた「暗夜」の時期に該当するだろう。しかし、人はそれを乗り越えることが出来る。そして、その暗闇があったからこそ、彼は、全てを生み出す光の何たるかを知ることが出来たのだ。

 むかし、この作品の装丁画を見たとき、わたしはそこに死を嗅ぎ取った。でも、きっとその死の向こうにこそ、生のうつくしさが秘められているのだろう。

 

 

ガーデンオブエデン (Feelコミックス)

ガーデンオブエデン (Feelコミックス)

 

 

*1:ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカー『ゲシュタルトクライス』木村敏・濱中淑彦訳、みすず書房、1995年、3-4頁。

*2:小口偉一ほか監修『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、755頁を参照。

*3:渡邊二郎「ニーチェ : 生きる勇気を与える思想」、『放送大学研究年報』第18号、2001年、105-107頁を参照。