ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

秋山晟『空になる青』――うつくしい子供

力強く、もろく、
素直じゃないけどストレートな
君たちの交わす言葉は、
一歩離れて見ている私たちには
痛く、でもやっぱり、
どうしてもあたたかい。

内側に、光るクラックを
包んでいる透明な結晶を
ひとつ、いただきました。

 

芦奈野ひとし「青の子供達」*1

 

 

 これは、孤独についての物語だ。ひとりぼっちという意味での孤独ではない。たとえ誰かと一緒にいても、そのひとのことを決して本当には理解できない。そういう意味での孤独について、克明に描かれている。
 主人公の岡野孝文とヒロインの折原環は、どちらも高校生で、幼馴染で、恋人同士。そして二人とも、人よりも優れた能力を有している。岡野は人並み外れた腕っぷしと男性的魅力を備えており、彼に靡く女性は多い。また折原の方も、美貌と知性に加え、ずば抜けた文才に恵まれており、若くして作家として活躍している。二人ともその美点の故に、多くの友人に囲まれている。それでも、二人は孤独だ。
 二人とも、その卓越性の故に孤独だ。岡野はその腕っぷしの強さの故に、数多の不良の顰蹙を買い、いつも争いに巻き込まれている。そして、時にはその争いが、彼の大切なものを傷つけてしまう。また、折原も、その才能の故に大人たちの妬みを買い、彼らの利益のために利用されそうになってしまう。
 そして、二人とも、その卓越性にもかかわらず孤独だ。岡野の父は、恐らく無実の罪で投獄されている。彼はそれゆえ一部の人間から犯罪者の息子として煙たがられている。彼の腕力も、そうした汚さには無力だ。また、折原は、同じく小説家だった兄を自殺で亡くしている。兄は孤独の故に絶望し、命を絶った。その死は、妹である環にも、同じ孤独と絶望を突き付けた。

なにもかも
空っぽよっ!
世界なんて
――

ウソや
虚構や建て前
ばかりで!

なにもないっ
誰もいない!!*2

  兄の死を前に取り乱した折原の叫びは、この作品の根幹を成す「孤独」の概念を見事に要約してくれている。たとえ他者に囲まれていても、彼らは虚構や建て前で真実を隠している。それゆえ、どんなに努力しても、決して他者とは理解し合えない。ならば、たとえ誰かの傍にいても、独りでいるのと同じだ。その意味で世界には自分独りしかおらず、その孤独から逃れるすべはない。
 岡野と折原は等しく孤独で、そしてきっと同じ孤独を分かち合っている。二人は軽口を叩きながらも、お互いを熱く求め、片時も離れずにいる。それは孤独に抗する一番確実な方法だ。しかし、二人は分かっている。お互いを本当に理解することはないだろうと。ただ、この作品と同時代のフリッパーズ・ギターの言葉を借りるなら、彼らはお互いに分かり合えないことだけは、きっと分かり合っている。そして、この物語は、この無知の知から一歩でも先へ進まんとする二人の苦闘の記録なのだ。

……
ひとりだって
ことに

目を
そむけて
たら……

ずっと
ひとりだよ*3

  岡野は、同じく孤独に苦しむ少女にこう言った。これは、岡野と折原の生き方を凝縮した言葉だろう。二人は決して、自らの孤独から目を逸らさない。自分は、いや、ひとはみな孤独であることを自覚しつつ、それでも、誰かと分かり合いたいと希求し続けること。二人は愚直に、そうやって生きている。
 二人はだから、いつも真剣で、嘘がない。他の人間だったら妥協して自分が折れるような場面でも、二人は決して揺るがず、嘘をつかず、自分の真実を貫く。芦奈野ひとしが指摘したように、その姿勢は強さと脆さが表裏一体になっており、釘付けになるほど美しいが、しかし、いつまでもそうやって生きていたら、いつかどこかで折れてしまうように思う。それでも、二人はそのままで走り続ける。きっと、その蛮勇さこそ、子供の特権なのだろう。
 人間は基本的に分かり合えないものだ。むかし、ある教会の牧師に、そう釘を刺されたことがある。その牧師とは最後まで反りが合わなかった。当たり前だ。向こうは完全に大人で、当時の自分はアホな子供だった。今になって思う。きっと大人とは、人間がお互いに分かり合えないと知り、その事実を受け入れてなお、生き続ける者のことを言うのではないかと。
 ある大人は、理解し合えないところに人生の醍醐味を見出すかもしれない。ある大人は、諦観を抱えながら一生を閉じるかもしれない。いずれにせよ、大人はこのどうしようもない事実を飲み込むしかない。そして、それに抗うような馬鹿な真似はしない。
 そう、岡野と折原が孤独に苦しむのは、二人が子供だからだ。大人はみんな、そんな事実をとっくの昔に前提条件として受け入れた上で、その孤独の中で当たり前のように生きているのだ。結局、二人が孤独に苦しんでるのも、子供がかかる麻疹のようなものなのだろう。それは単に一過性のもので、二人がいずれ大人になったら、懐かしさと共に笑い飛ばしてしまう。その程度のものかもしれない。
 でも、わたしたちは、たぶん誰でも二人のように、孤独に苦しんだ時期があるはずだ。誰かを本当に理解したいと、そう希求したはずだ。そして、その麻疹を克服した今もなお、誰かと分かり合うという不可能な理想の輝きが減じたわけでは決してない。それを求めるのは無謀だ。でも、大人から見て無謀なことに命をかけて取り組むことが出来るからこそ、子供は美しい存在なのではないか。
 この漫画の表紙を見ると、「1」という数字が振られている。わたしたちが手にしているのはこの物語の第1巻で、二人の巡礼には続きがあるはずなのだ。しかし、発行から20年経った今でも、続きが出る気配はない。作者の秋山晟は、この『空になる青』の1巻と、早々に未完になったとあるファンタジーを残して、忽然と姿を消した。
 この物語の続きについて、折に触れて想像する。いずれ二人にも、大人になる時が来る。自分の孤独と折り合いをつけ、どこかで何かを諦めるのかもしれない。その結末は、大人になった自分を慰めてくれるだろう。でも、かつて子供だった自分は、どこか釈然としなかったはずだ。岡野と折原は、このままでいくと、永遠の子供として、いつまでも孤独と闘い続けるだろう。そして、そのことに安堵している自分がいることを、決して否定できない。

 この物語についてひとに訊かれたら、どう答えればいいだろう。そう思ってこの記事を書いてる間、ずっとある短編のことが頭にあった。トルーマン・カポーティ(TC)がマリリン・モンローについて描いたその短編は、次のように締めくくられている。

マリリン あたしがどんな女か、マリリン・モンローは本当にどんな女かそう人に訊かれたら――ねえ、何て答えるつもりなのって訊いたの覚えてる?(彼女の口調はからかうようであり、馬鹿にするようでもあったが、真剣味があった。本音を訊きたかったのだ)あたしはとんまだって言うんでしょうね。お菓子のバナナ・スプリットみたいだって。

TC 当然ね。だけど、それにつけたして……。

(あたりは暗くなってきた。彼女は空や雲とともに、闇にまぎれ、空や雲よりも遠ざかっていくように見えた。私はカモメの鳴き声よりも大きな声を出して彼女を呼び戻したかった。マリリン! ねえ、マリリン、何もかもがなんで決まりきったように消えてなくなるのだろうか。人生ってなんでこんなにいまいましく、くだらないのだろうか、と)

TC えーとね……

マリリン 聞こえないわよ。

TC えーとね、きみはうつくしい子供だとね。*4

 

 

※2017/01/31追記

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空になる青 1 (アフタヌーンKC)

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カメレオンのための音楽 (ハヤカワepi文庫)

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*1:秋山晟『空になる青』、講談社、1996年、228頁。

*2:秋山晟『空になる青』、34頁。

*3:秋山晟『空になる青』、115頁。

*4:トルーマン・カポーティー「うつくしい子供」、『カメレオンのための音楽』野坂昭如訳、早川書房、2002年、382-383頁。