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ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

夜更かし気晴らしカントリーマアム

 眠れない時には無理に寝ないで、勉強でもすればいいんだ。そう言っていたのは、高校の時の理科の先生だった。伊奈かっぺいをちょっとふっくらさせたような風貌で、ギターが大好きな音楽狂だった。よく授業にギターを持ち込んで、化学や生物の事項について、ジョン・レノンの替え歌を作ってはうたってくれた。当時はアホなおっさんだなあと思っていたけれど、今思うと、本当に素敵な大人だった。あの人の靴の紐を解く価値すら、今の自分にはない。
 高校の時の印象的な教師といえば、もう一人、二年生の時の世界史の先生を思いだす。普段は発掘の仕事をしているのだが、少しそれが途切れたので、非常勤で教えます。そんな自己紹介をした彼の肩にはバンジョーがかかっていた。むかしメキシコに留学したことがあって、教えてもらったんです。そう言って、少しはにかみながら、凄まじい超絶技巧を披露してくれた。穏やかで知性的な雰囲気の方だったが、時折突拍子もないことをしでかしたりして、そんなところが生徒たちに好かれていた。二年の終わりごろ、次の仕事が見つかりましたと言って、学校からサッと姿を消した。その後の行方は杳として知れないが、まあ、どこかで自分のやりたいことを好きなだけやっているのだと思う。

 夜になると、昔のことを思い出す。色んなことが思い出されて、眠れなくなる時がある。そんな場合は無理に寝ないで、勉強をしろと教わった。でも、今は特に学ぶべきものは何もない。なので、戯れに過去を発掘して、自分の人生にも少しは価値があったのだと再確認してみる。

 自分の人生の絶頂期は、もしかしたら予備校時代かもしれない。予備校までは自転車で片道一時間半。早くに母親に弁当を準備してもらって、夜と朝との合間に家を出発した。980円で買った安物のMP3プレーヤーでコトリンゴのclassroomを聴きながら、一心に自転車をこいだ。

ずっと考えてた 誰かのように
歌えたら ここにはいないって
耳を澄ましてごらん 何か起こりそう

 コトリンゴはこんな風にうたっていた。自分もまた、誰かのように歌えたら、こんなところにはいないと思っていた。自分は今はこんな境遇にいるけれど、うんと努力すれば、あのひとみたいに、あるいはこのひとみたいになれるかもしれない。こんな地べたを這いずり回るような人生に、いつか終止符が打たれ、自分にも光が当たる日がくるかもしれない。そのために勉強するんだ。そう思っていた。だから、学ぶのは苦じゃなかった。自習室に籠って、伊藤和夫の参考書なんかを開いていると、無性にわくわくしたのを思い出す。未来が眩しかった。そう信じていた。
 いまコトリンゴのclassroomを聴き返してみると、こんな歌詞があった。

廻れ廻れ 世界の端っこで

 世界の片隅で、くるくる回る。こう考えるとどうしても、この間観た『この世界の片隅に』を思いだす。朗らかな笑顔で天を仰ぎつつ、くるくると回るすずさんの姿が、何だか目に浮かぶ。コトリンゴがこの曲を作ったのは2008年かそれより前。当時はこうのさんの原作すら、まだ世界には存在しなかった。しかし、ただの偶然だったとしても、何か、今に通じるものを、ずっと前に創りだしている。過去の努力が、まるで必然であるかのように現在に繋がり、そして恐らく、未来へとつれていってくれる。むかし自分が憧れたあのひとやこのひとは、たぶん、そんな幸福な連鎖を人生の中で幾度も体験していたのだろう。この手が、すんでのところで掴みかねてしまったもの。

 夜更かしをしていると、失ったもののことばかり考えてしまう。そして、その手の感傷はしばしば甘い。
 子供の頃、親が寝静まった頃にこっそりと起きて、キッチンの戸棚に入っているカントリーマアムなんかを盗み食いしたことがよくあった。
 こういう感傷に浸るのも、結局はそんな汚い食い意地のせいなんだろう。チョコが思い出になっただけ。

 むかし教会に通っていた。割と長く通っていたけど、最終的には喧嘩別れをしてしまった。でも、未だに教会という場には、何というか、独特の愛着というか、郷愁のようなものを感じる。
 思えば色んな教会に通った。今はもう行けないとある教会には、ずいぶんと長く通った。居心地はとても良かったけれど、引っ越しを期に別れた。もしずっとそこに住んでいたら、もっと違う人生があったかもしれない。
 その教会の戸棚には、まあ、なんというか、教会という場所でしかお目にかかれないような、独特な本がたくさんあった。進化論を否定するトラクトだったり、よく分からん宣教師の海外宣教記だったり。そんな雑多な本の中に、一冊の手記が混ざっていた。
 もう名前も思いだせないその本は、とある夫婦のノンフィクションだった。二人は信仰篤いクリスチャン。教会で出会い、周囲に祝福され、結婚する。しかし、片方が癌にかかる。闘病も虚しく死ぬ。そして残された方も同じ癌にかかり死ぬ。
 時折ふっと、この本を読みたくなることがある。名も知れぬ出版社の素朴な本で、宗教というバイアスがバリバリかかっている内容だったけど、それでも、生と死に関する何か剥き出しの真実のようなものが含まれているように感じたのだ。それを確かめたいと、是非思う。でも、もしかしたらその真実の感覚すら、記憶による脚色かもしれない。いや、脚色じゃないにせよ、今の自分が読んでも、何も感じ取れないかもしれない。だから、読まない方がいいかもとも思う。どちらでもいい。どちらにしろ、実際に読むことはもうないんだから。

 過ぎ去ったものや失ったものについて想うと、自分の人生にもそれなりに美しい場面があったのだと分かる。でも、その美しい何かが、今につながっているかというと、そうではない。ただ、届かないところできらきらと輝いているだけ。カントリーマアムや煙草みたいな嗜好品に過ぎない。でも、まあ、気晴らしの一つもない人生よりかはましでしょう。カントリーマアムみたいに太らないし、煙草みたいに肺を悪くもしない。でも、あんまりこれに浸りすぎると、これからのことにますます興味がなくなって、もっと悪い病に襲われることになるかもしれないので、まあ、ほどほどに致します。

 

Sweet Nest

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