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ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

呉と閖上――『この世界の片隅に』を巡る自分語り

映画 漫画

※この記事には『この世界の片隅に』のネタバレとかが満載だと思うので、必ず観てから読んでください。

※ここに書いているのはあくまで筆者個人の解釈です。間違っていたなら教えて下さい。

※東北で311を経験した立場から書いていますが、あくまでこれは個人の意見であり、被災者全体の意見ではありません。

閖上に対するスタンスに、もしかしたら傲慢な点があるかもしれません。

 

 

生きとろうが
死んどろうが

もう会えん人が居って
ものがあって

うちしか持っとらん
それの記憶がある

うちはその記憶の器として
この世界に在り続ける
しかないんですよね

 

こうの史代この世界の片隅に*1

 

 海といえば、閖上だった。
 むかし宮城に住んでいた。閖上は、車ならちょっとかかるくらいで、自転車ならだいぶ疲れるくらい。家から一番近い海だった。
 小さい頃は、夏になると親に車で連れてってもらった。波に揉まれて大いに笑った。浜辺で弁当を食べた。必ず夕方までいた。夕暮れの海はとても綺麗で、水面がまるで魔法のような色に染まった。家に帰ると真っ先にシャワーを浴びて、それから綿棒で耳掃除をした。閖上浜に寄せる波は当たり前だが砂だらけで、綿棒はすぐに真っ黒になった。ごみ箱に捨てられた沢山の黒い綿棒を見ると、ああ夏だなあとしみじみ思ったりした。
 少し大きくなると、自転車でひとり、よく閖上に行った。夏にはもう行かなくなった。行くなら秋、もしくは春。別に寒くはないけれど、泳ぎたいとは思わない位の気候がちょうどいい。それくらいの海には誰もいなくて、浜辺には流木や粗大ごみしかいない。そんな浜辺にひとり座って、海を見るのが好きだった。特に、嫌なことがあったとき、過去や将来のことで鬱々とした気持ちになったときは、よくそうしていた。名取市図書館で吉本ばななの『アムリタ』なんかを借りて、海を見ながら読んだりもした。『アムリタ』の下巻に、霊感のある子供が海の向こうに永遠を見出す場面がある。本物の海を見ながら読んでいると、実に印象的だった。
 閖上に行くには、バイパスを左に曲ってずっと走る。家が並んでいる。店が並んでいる。何かキリスト看板が多い気がする。もっと行くと海に出る。勇ましい木々がどこまでも並ぶ。船着き場には、数え切れぬほどの舟。コンビニがある。アイスなんかをよく買ってしまう。笹かまだかの工場がある。ここで働く未来もあるかもしれない。夜になると、色んな窓から光が漏れる。ここには海があって、人がいて、夜になるとみな灯りをつける。どこでもそう。当たり前のこと。
 あの日までは。


 映画『この世界の片隅に』を初めて観たとき、終盤の呉と広島のシーンで思わず息を呑んだ。かつてあった家も、店も、工場ももはや残っていない。そこにあるのは瓦礫と土台、そして建物の骨組みばかり。その光景には見覚えがあった。大いに見覚えがあった。かつて慣れ親しんだ風景が、自分の力を遥かに超えた災禍によって根こそぎ奪われ、二度と戻って来ない。この世界では本当に、同じことが幾度も幾度も、幾度も繰り返し起こっているのだと思い知った。
 すずが呉と広島を歩いてから六十年。それらの街はすっかり生まれ変わった。一度は無に帰したあの更地の上に、今は再び多くの家が、店が、工場が並び、失われたはずの人の営みも、そこに復活しているはずだ。そう、この世界では幾度も幾度も、人の暮らす風景が根こそぎ奪われてきたが、しかし人間は不屈の精神をもって、その虚無の上に幾度も幾度も、新しい風景を打ち立ててきた。これまでも、今も、これからも、人間はそうやって運命に抵抗し、闘いながら生きていくのだろう。初めて観たとき、俺はそう感じた。しかし、この映画の真価を思い知ったのは、早くも次の上映で二度目を観たときだった。
 二度目の上映の冒頭で、俺は確かに奇蹟を目の当たりにした。失われたはずの広島が、確かに甦っているのだ。海苔を届けに来たすずが、賑やかな広島の街を歩く。華やかな商店街。定員がサンタの服を着て客引きをしている。店頭には豊富な商品が所狭しと並んでいる。すずが望遠鏡を覗きこめば、遠くには広島県産業奨励館が見える。そう、一瞬の閃光と共に消え去ったはずのあの風景が、確かに、本物のいのちをもって、そこに現れていたのである。
 いや、そうではない。きっと最初に観たときも、劇中の世界は確かに生きていたはずだ。しかし俺はそれに気付かなかった。なぜならば、劇中にかつての呉と広島が出ることなんて当たり前だと思ってたからだ。片渕須直監督の執念にも近い努力によって完璧に再現されたかつての街並み。それがこの映画の売りだ。だから自分は観客として、それを傍観し、感心することしかしてなかった。だから、本当に大切なことを、すべて見落としてしまっていたのだ。


 閖上は、ずっとそこにあると思っていた。あの家も、あの店も、あの工場もみんな、ずっとそこにあると思っていた。いや、流石に三十年五十年と経てば、かつての風景の大半は消え去っていただろう。しかし、まさかこんなに早く、こんなかたちで、何もかも失われてしまうとは思ってもみなかった。
 俺は閖上を覚えている。それは確かだ。でも、その閖上は日が経つにつれて、徐々に、確実に、霧に紛れて見えなくなってゆく。あの日見た海の色も、あの日アイスを売ってくれた店員の顔も、あの日電柱に貼ってあった看板の文字も、あの日歩いた道の固さも、全部はっきりとは思いだせない。だって、いつまでもそこにあると思っていたのだ。帰ればいつでも、前とほぼ変わらない姿で、自分を迎えてくれると思っていたのだ。
 いや、たとえ事前に知っていたとしても、どうしようもなかったのだろう。たとえ、どんなに深くあの風景を刻み込んだとしても、結局は記憶は薄れてゆき、別の何かで上書きされ、いつかは完全に霧に隠れてしまう。ならば、自分に残されたこの思い出は、結局は単なる感傷に過ぎないのだろうか。この思い出が、人間の運命に抗する闘争に寄与することはないのだろうか。


 片渕須直監督は日経ビジネスのインタビューで、『この世界の片隅に』を製作する際の基本姿勢について、次のように述べている。

古峰さんや私などが航空史研究でやっているのは、伝聞とか回想とかを排除して、当時の一次資料のみに基づいて「実際にその飛行機はどんなものだったのか」 を明らかにしていくということです。「この世界の片隅に」では、このやり方を生活全般に適用してみました。一次資料を集めて、「昭和18年から21年の生 活って、一体どんなものだったんだろう」と調べていったわけですね。*2

 しかし、なぜ伝聞や回想を排除しようとしたのか。それは、俺たちの思い出が確実に信用できるものではないと知っていたからだ。

片渕:そうではなくて記憶って、後から上書きされちゃうものなんでしょうね。一番そのことがはっきり分かるのは、機銃掃射を体験した方の体験談に、必ずと いっていいほど「自分を撃った飛行機の搭乗員の顔が見えた」あるいは「目が合った」ということが出てくるんです。でも、必ず目が合ったり顔が見えたりする わけじゃない。そうそう目が合うはずもないのに、なぜ「目が合った」ということになるのだろうか、と思うわけです。僕が直接お聞きした例では、「B-29 に乗っている人の顔が見えた」という証言もありました。

――B-29は低高度爆撃をしていませんから、いくらなんでも見えるはずがない。

片 渕:それはつまり、当時実際に観たこととは違う印象で、記憶が上書きされているということです。だから伝聞とか回想とかを取り除いて、一次資料だけで、庶 民の生活を捉え直していこうと考え、実行していったんです。*3

 一次資料だけでかつての風景を捉え直す。この言葉が決して誇張でないことは、今や誰でも知っているだろう。WEBアニメスタイルで長期に渡って連載された「1300日の記録」*4には、彼の途方もない実践が克明に記録されている。彼は、呉や広島、戦前の生活に関する文献や資料を渉猟し、自らの血肉になるまで研究した。彼の頭の中には、そうしてかつての風景が構築された。そして、その上で幾度も幾度も、呉に、広島に足を運んだ。すると、「千年の魔法」が起こる。彼はそう言う。

 具体的な地理環境は、それこそグーグルアースみたいなものを使えばある程度把握できる。だが、それで何かを知ったと思っていきなり現地ロケハンに赴いて も始まらない。それでは「今の姿」しか目に入らない。その同じ場所の今からおおよそ65年前、昭和18年から21年当時の姿を知っておきたい。それができ たならば、現地に立ったとき、目の前にある風景が、往時の光景と二重写しに見える「千年の魔法」も発動するだろう。 *5

 この「千年の魔法」とは、片渕監督の前作『マイマイ新子の千年の魔法』のキーワードである。今住んでいるこの場所には、千年前にも誰かが住んでいて、ほんのわずかな痕跡が、つい見落としてしまいそうなかたちで残されている。その痕跡を糸口に、空想の力で時を飛び越え、千年前の世界とひとに、もう一度出会うこと。それが「千年の魔法」だと、自分は理解している。これはフィクションだと、空想だと思っていた。でも違った。片渕監督は本当に、この魔法を使えたのだ。膨大な資料を血肉にした彼が現地に赴いたとき、その眼には本当に、六十年前の風景が、そして、そこを歩くすずの姿が見えていたに違いない。
 この映画の風景が人々の心をこんなにも打つのは、本物の「千年の魔法」が発動しているからだ。膨大な資料を渉猟し、実際の土地と誠実に向き合うならば、人の想像力は時を越え、失われた風景に到達することが出来る。だが、その魔法も完璧ではない。どれだけ資料を漁っても、どれだけ現場を探索しても、どうしても謎は残るもの。でも、そうで良かったと俺は胸を撫で下ろしている。なぜなら、その謎にこそ、思い出の居場所があるからだ。


 映画館から帰ると、真っ先にネットで閖上について調べた。今はもう失われたあの風景を、何とかしてもう一度見たいと思ったからだ。確かに自分の中にはあの場所の思い出が残っている。でも、それはもう確たる記録でなく、単なる感傷になってしまっている。自分の中の閖上を、このまま風化させるに任せるのは、どうしても耐えられなかった。
 そして俺は、「3がつ11にちをわすれないためにセンター」*6に出会った。これは仙台市にある複合文化施設せんだいメディアテーク」が実施している事業で、被災地に関する様々な記録を収集し、広く公開してくれていた。HPも極めて優れていて、TOP右上の検索ボックスに地名を入れれば、その地に関する膨大な震災の記録が出てくる。もちろん、閖上の記録も。
 そこに残された数多の閖上の写真を見ていると、それまで霧がかっていたはずの記憶が、みるみる鮮やかさを取り戻していった。忘れていたはずの細部が、あの日抱いていた感情が、どこからともなく蘇ってきたのだ。人間の記憶は決して失われることはない、ただ、それを取り出せなくなるだけだ、という説をどこかで聞いたが、それを信じたくなった。そう、俺たちの思い出は、放っておけばどんどん風化してしまう。でも、確かな記録を補助線に、もう一度きちんと取り出す努力をすれば、俺たちの記憶はいつになっても鮮やかな姿を保ってくれるのではないだろうか。


 片渕監督の「1300日の記録」に、とても印象的なエピソードがある。「第72回 広島からの返信」*7だ。冒頭の広島の風景について、どうしても分からないところがあり悩んでいたところ、実際に住んでいた方に質問する機会を恵まれた。そこで彼は自分が描いたレイアウトを丸ごとその人たちに送って意見を求めた。すると彼らは細部に関して、実に的確に指摘をしてくれたという。片渕監督もその記憶力には舌を巻く、というものだ。
 先に見たように、片渕監督のスタンスはあくまで一次資料を重視するというものである。しかし実際には、彼は多くの戦争体験者に話を聞き、膨大な証言を集めている。しかし七十年も前のことだ。当然ながら記憶は不鮮明であろう。一次資料を重んじるという姿勢も当然である。しかし、片渕監督のその積み上げが、結果的に思い出に居場所を与えているように思う。
 片渕監督は膨大な考証と綿密な現地調査、そして千年の魔法により、レイアウトとして紙面にかつての広島を再現した。それを見た証言者はきっと、そのレイアウトが引き金となって、かつての記憶が鮮やかに甦ったのではないか、と俺は妄想してしまうのだ。そして、どんなに考証を重ねても不明だった点が、証言者らの指摘によって判明し、劇中の世界に、より深くいのちが吹き込まれる。『この世界の片隅に』では、このような幸福な相互作用が働いていたのではないかと自分は想像してしまうのだ。
 片渕監督の作り上げた世界は、基本的に一次資料に基づいた、極めて客観的なものである。だからこそ、その世界は感傷に留まらないものになっているのだ。しかし、その世界の片隅には、どうしても不明な点が残る。そこは人々の記憶で補填するしかない。そして、その記憶は、片渕監督の再現した世界により大いに補強され、鮮やかによみがえり、時には真に耳を傾けるに足るものとなる。そう、片渕監督の大いなる試みの中にも、思い出の居場所はきちんとあったのだ。少なくとも俺はそう信じたい。劇中世界の片隅に、実際にそこで生きた人々の思い出が確かに息づき、この作品に、本物のいのちを与えてくれている。自分はそう、信じたいのだ。


 冒頭で俺は、人間の運命に対する闘争について言及した。人間は風景を喪っても、その上に新しい風景を打ち立てることで、運命に抗してきた。でも、もう一つ、運命に抗う闘争がある。それは、失われた風景を取り戻すためのものだ。
 片渕監督はこの作品で、アニメーションという武器をもって、風景を簒奪した運命と闘い、見事に勝利を収めて見せた。膨大な考証と、千年の魔法と、人々の思い出の助けを借りて、彼はアニメーションの上に、本当に生きているが如き風景を創りだして見せた。アニメの語源はラテン語で魂を意味するanimaであるのは有名な話だが*8、そのことを、これほどまでに実感させてくれる作品は、もしかしたら無かったのではないだろうか。アニメという芸術は、失われた人と風景とを、ここまで鮮やかに、本当に魂を有しているかのように描きだすことが出来る。もしかしたら自分は、生まれて初めて本当のアニメを見たのかもしれない。
 そして、その闘いに思い出の居場所があったであろうことは、俺を大いに勇気づけてくれる。俺があの風景を覚えていることは、決して無駄ではない。時にこの思い出は、大いなる指導者のもとでは、あの風景を奪い去った運命に対する武器となるのだ。俺があの風景を覚えていることにも、間違いなく意味がある。そのことを、この作品は教えてくれた。


 俺は、閖上のことを忘れない。

 

 

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