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ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

「シン・ゴジラ」の構造、牧悟郎の真意――本多映画とエヴァとの間

映画 シン・ゴジラ

「説明しよう」とぼくは言った。「<正義>には、われわれの主張では、一個人の正義もあるが、国家全体の正義というものもあるだろうね?」
「ええ、たしかに」と彼は言った。
「ところで、国家は一個人より大きいのではないかね?」
「大きいです」と彼。
「するとたぶん、より大きなもののなかにある<正義>のほうが、いっそう大きくて学びやすいということになるだろう。だから、もしよければ、まずはじめに、国家においては<正義>はどのようなものであるかを、探求することにしよう。そしてその後でひとりひとりの人間においても、同じことをしらべることにしよう。大きいほうのと相似た性格を、より小さなものの姿のうちに探し求めながらね」

プラトン『国家』368E-369A*1

 

 はじめに

 「シン・ゴジラ」を初めて鑑賞した時の驚きったらなかった。真正のゴジラであり、どうしようもなくエヴァでありながら、しかし新しい何かだと感じた。その感覚がどこに由来するのかずっと考えていたけれど、切通理作本多猪四郎論を読んで、その理由がようやく分かった。「シン・ゴジラ」は本多映画とエヴァンゲリオン両者の構造を取り入れつつ、そこに絶妙な変化を加えているのだ。それは一体どういうことか。以下で考察してみたい。

 

 
 1. 本多映画の構造

 まず、切通理作が提唱している本多映画の構造について確認したい。彼は、本多猪四郎オフィシャルサイトに全十四回に渡って掲載した「無冠の巨匠 本多猪四郎」と、それに大幅に加筆修正を加え完成させた名著『本多猪四郎 無冠の巨匠』*2において、多くの本多映画には共通の構造・物語が見出せるとし、それを以下のように要約している。

それは、<現代社会からゆきはぐれてしまった人間>が、<閉じた自意識の内にこもり>、<異性への思いを抱きながらも、それを拒絶してしまい>、最終的には<自己犠牲、もしくは、はぐれ者どうしの心中という形で自分に決着をつける>という物語である。誰の脚本であろうと、怪獣が出ようと出まいと、本多監督の映画は皆、この物語のバリエーションにすぎないのだ *3

 

 そして、この物語が最も顕著に表現されている作品こそ、初代「ゴジラ」に他ならない *4
 初代「ゴジラ」の物語は、以下の三者の関係性によって構成されている*5

 ①    尾形や恵美子に代表される<現代社会>。
 ②    その現代社会に適合できない芹沢博士という<はぐれ者>。
 ③    ゴジラという<怪獣>。

 この三者の関係に焦点を当てつつ、「ゴジラ」の物語をまとめてみよう。
 1954年の日本は戦禍から徐々に回復し、繁栄を取り戻しつつある。尾形や恵美子といった<現代社会>側の人間は、その繁栄を素直に享受している。しかし、戦争によって他者も自分も信じられなくなった芹沢は、その現代社会に適合できず、独り籠って超兵器オキシジェン・デストロイヤーの研究に没頭している。そんな中、日本にゴジラが現れ、復興しつつあった東京を破壊し尽くす。尾形と恵美子は芹沢にオキシジェン・デストロイヤーでゴジラを倒すよう嘆願する。初めは拒否していた芹沢だったが、尾形と恵美子の関係を察したこと、そして平和を祈る少女らの歌を聞いたことで心を変え、最後はゴジラを道連れに死んでゆく。以上が「ゴジラ」の骨子である。
 この物語を一言でまとめるならば、<はぐれ者>が<現代社会>のために<怪獣>と心中する話、となるだろう。そして本多は「ゴジラ」以降の映画においても、<現代社会><はぐれ者><怪獣>という三者の関係性を執拗に描き続けたのである。
 たとえば「フランケンシュタイン対地底怪獣」。これは、社会から疎外された人造人間フランケンシュタインという<はぐれ者>が、それでも<現代社会>を守るために<怪獣>バラゴンと戦い、半ば心中のようなかたちで消えてゆく物語である。あるいは「海底軍艦」。終戦を知らず、戦後秩序においてなお連合軍の打倒を目指す神宮寺大佐という<はぐれ者>が、娘の生きる<現代社会>のために、世界征服を目指すムウ帝国という<怪物>と戦う映画である。どれも同じ物語を反復していることが分かるだろう。
 さて、切通が提唱した本多映画の三角構造には、三つの重要なポイントがあると筆者は考える。
 第一のポイント。<はぐれ者>は物語の核心となる存在であるが、形式的には<現代社会>が主人公となっていること。たとえば初代「ゴジラ」の最重要人物が芹沢博士であることは明白だが、映画の主人公は尾形ということになっている *6
 第二のポイント。<はぐれ者>は<現代社会>と<怪獣>の両者の要素を併せ持っているということ。芹沢博士は人間であり人間社会に属するが、同時にオキシジェン・デストロイヤーという超兵器を保有しており、ゴジラをも凌ぐ破壊能力を有している。この二面性こそが<はぐれ者>の最大の特徴のように思われる。
 第三のポイント。<現代社会><はぐれ者><怪獣>の三者は、完全に三すくみの関係にあるということ。<現代社会>は<怪獣>に蹂躙されるしかないが、しかし<はぐれ者>の心を動かすことが出来る。<はぐれ者>は<現代社会>から疎外されているが、しかし<怪獣>を倒す力を有している。<怪獣>は<現代社会>を破壊し尽すことが出来るが、しかし<はぐれ者>には敵わない。
 以上、切通の論に依拠しつつ、本多映画共通の構造について確認した。本多特撮映画の特徴は、<人間>対<怪獣>という単純な図式を決して描かず、<現代社会><はぐれ者><怪獣>の三者が織りなす、より精妙な物語を描き出したところにあった *7町山智浩によれば、本多以外が作った怪獣映画にはこのような三角構造は見出されないという *8。しかし「シン・ゴジラ」は、この本多映画特有の構造を巧みに取り入れているのだ。次章ではそのことを示したいと思う。

 


 2.「シン・ゴジラ」の構造

 本章では「シン・ゴジラ」が<現代社会><はぐれ者><怪獣>という本多映画の作品構造を取り入れつつ、そこに巧妙に変化を与えていることを検証したい。
 「シン・ゴジラ」は「現実対虚構」というキャッチコピーの通り、一見すると日本とゴジラの二者の対立を描いた映画のように思える。しかし物語の構造を精査してみると、本多作品、特に初代「ゴジラ」の如く、以下の三者によって構成されていることが分かる。

 ① 矢口などが属する<現代社会>
 ② その<現代社会>に怨みを抱く牧悟郎という<はぐれ者>
 ③    ゴジラという<怪獣>

 この三者の関係性にフォーカスしつつ、「シン・ゴジラ」の物語を振り返ってみよう。
 <現代社会>に突如ゴジラが出現する。矢口率いる巨災対は、ゴジラの出現に牧悟郎という人物が深く関与していることを突き止める。彼は妻を殺した放射性物質と<現代社会>に怨みを抱いており、それ故にゴジラを東京に放ったものと思われる。しかし彼は同時に、ゴジラを凍結させるための鍵も<現代社会>のために残していた。矢口と巨災対はその鍵に助けられつつ凍結プランを遂行し、ゴジラを封じる。そして最後に<現代社会>と<怪獣>の共存というヴィジョンが矢口によって語られる。以上が「シン・ゴジラ」の骨子である。
 以上の要約からも明白なように「シン・ゴジラ」は初代「ゴジラ」をはじめとする本多映画特有の三角構造を全面的に取り入れている。「シン・ゴジラ」が初代「ゴジラ」再来であると感じられる理由は多々挙げられるが、物語の構造自体が初代「ゴジラ」のそれと共通していることも大きいだろう。
 しかし、当然ながら「シン・ゴジラ」と初代「ゴジラ」の物語構造の間には異同も存在する。以下ではその違いを、前章で提示した三つのポイントに絞って検討してみたい。
 第一のポイント。この点に関しては「シン・ゴジラ」は初代「ゴジラ」と全く同じである。映画の主人公は<現代社会>を代表する矢口蘭堂であるが、後で述べるように、この物語の最重要人物は間違いなく牧悟郎である。そのことは、庵野秀明の心酔する岡本喜八が牧悟郎を「演じている」ことからも明らかだろう。
 第二のポイント。この点でも「シン・ゴジラ」は初代「ゴジラ」と一応は共通している。<はぐれ者>たる牧悟郎が<現代社会>と<怪獣>の両者の要素を併せ持っていることは言を俟たない。彼はゴジラの専門家であり、自身の目的のためにゴジラを利用できた。それどころか、彼自身がゴジラと同化した可能性すら、多くの感想で指摘されている。しかし他方で、彼は<現代社会>のためにゴジラを凍結させる鍵を残すだけでなく、<現代社会>を飛躍的に発展させる技術すらも提供しているのだ。
 ただ、「シン・ゴジラ」の場合は<はぐれ者>のみならず、<怪獣>も<現代社会>も同様の二面性を有しているように思われる。そこが初代「ゴジラ」との大きな違いである*9
 <怪獣>たるゴジラの二面性は、次の矢口の台詞に凝縮されていよう。「つまりゴジラは、人類の存在を脅かす脅威であり、人類に無限の物理的な可能性を示唆する福音でもある、ということか」。
 <現代社会>の代表たる矢口蘭堂にも、<現代社会>と<怪獣>の両者の要素が認められる。彼は一見、初代「ゴジラ」の尾形と同様、<現代社会>の秩序を維持することに一点の曇りもない人物のように思える。しかし彼は、尾形とは異なり、明らかにゴジラに魅せられてもいるのだ。ゴジラの進化を目の当たりにした際の彼の言葉と眼差し、夜空を過る紫の熱線を陶然と見つめる彼の表情は、彼の中の何かがゴジラという圧倒的な存在にどうしようもなく惹かれていることを物語ってはいまいか。秩序の保持を希求する側面と、混沌たる怪物に魅了される側面とが、恐らく本人にも無自覚のうちに、彼の中で矛盾なく併存しているところが、矢口蘭堂の大きな特徴であり、また魅力であろう *10。矢ゴジもっと流行れ。
 第三のポイント。前述の通り、初代「ゴジラ」などの本多映画では、物語を構成する三者は三すくみの関係にあった。しかし「シン・ゴジラ」はこの点において本多映画と決別し、<怪獣>と<現代社会>の両者を<はぐれ者>たる牧悟郎に従属させている。もう一度確認してみよう。<怪獣>たるゴジラは牧悟郎の手によって生み出され、彼の目的のために東京を破壊した。しかし同時に牧悟郎は<現代社会>のためにゴジラを封じるヒントを残し、巨災対はそのヒントに沿ってゴジラ封印を果たした。つまり、<怪獣>も<現代社会>も畢竟は<はぐれ者>の意図に沿って行動していたにすぎないのである。これは一体何を意味するのか。牧悟郎の真意は何だったのか。われわれは改めてこのことを問わねばならない。
 以上の議論を小括しよう。「シン・ゴジラ」は本多映画に特有の三角構造を導入しており、そのことがこの映画の強烈な「初代ゴジラっぽさ」に寄与しているものと思われる。しかし「シン・ゴジラ」と本多映画の間には異同もある。物語を構成する三者のうち、<はぐれ者>たる牧悟郎に他の二者を従属させている点がその最たるものであろう。そこで次章ではこの牧悟郎という人物に焦点を当てることにしたい。

 


 3.牧悟郎の真意

 本章では牧悟郎の真意・目的について、筆者なりに妄想してみたい。牧悟郎は東京にゴジラを放ちつつ、同時にゴジラを封じるヒントも残していた。なぜ彼はこのような相矛盾した行動をしたのか? 筆者の答えはこうである。牧悟郎は世界の中に、自らの内的葛藤と同じ状態を再現しようとしたのだ。これはどういうことか。
 劇中で指摘されているように、牧悟郎は放射線障害で妻を亡くしており、放射性物質のみならず、過ちを犯し続ける日本、ひいては人類・世界を憎んでいた。彼の内には人類・世界を破壊したいという衝動が存在し、それがゴジラを世に放つ動機になったのだろう。しかし同時に、ゴジラを封じる鍵を残したことから、彼は日本を、ひいては人類・世界を赦したいという想いも抱いていたように筆者は感じる。牧悟郎は、世界を滅ぼすべきか、赦すべきか、という葛藤を抱えていたのではないか。しかし彼には結論を出すことが出来なかった。そもそもこのような大きな問いは、一人の小さな人間の手に余るものである。だから彼は、件のゴジラ騒動を引き起こしたのだ。
 彼は東京にゴジラを放った。ゴジラは紛れもなく、彼の内なる悪意、破壊衝動を具現化したものである。しかし同時に彼は、<現代社会>に解析表と、そのヒントとなる鶴の折り紙を残した。これはまさしく、平和を祈る牧悟郎の善意の象徴であろう。そして、牧悟郎の悪意たるゴジラと、牧悟郎の善意の助けを得た日本・世界は衝突し、死闘を繰り広げる。しかし、この死闘も実は、牧悟郎の内的葛藤を具現化したものに過ぎないことは、もう明らかであろう。
 今や世界には、牧悟郎が抱えていた葛藤と同じ構図の衝突が、はるかに大きな規模で展開されることとなった。ここにおいて、牧悟郎の内面と、世界そのもの間には、一種の同期状態が生じることとなる。人類は滅びるべきか、永らえるべきか、その問いはもはや牧悟郎が考えずとも、日本対ゴジラの戦いが自ずと答えを出してくれる。一人の人間が考えるよりも、はるかに確実な答えを。この問いはもはや、世界というもう一人の大いなる自己に委ねればよい。だから牧悟郎は死んだ。ゴジラに同化もせず、人類に肩入れしすぎることもなく、すべてを世界に委ね、彼は死んだ。そう筆者は考える。
 筆者の妄想をまとめよう。牧悟郎の中には、ゴジラに象徴される破壊衝動と、折り鶴に象徴される平和への望みの両方が存在し、その間で彼は葛藤していた。そして彼は、ゴジラを東京に放ちつつ、それを封ずるヒントを残すことで、彼の葛藤と同じ構図の闘争を現実世界につくり出したのだ。つまり「シン・ゴジラ」は突き詰めて言えば、世界という舞台で再現された一人の男の自意識の物語だったのである。あれ、これエヴァじゃね?



 4.エヴァンゲリオンとの比較

 本章では「シン・ゴジラ」とエヴァンゲリオンとの比較検討を行いたい。両者を比較する切り口は無数に存在するが、ここでは次の二点に焦点を絞りたい。第一に「セカイ系」、第二に「ホメオスタシストランジスタシス」である。

 セカイ系
 エヴァという作品の特徴の一つに「「自分の謎」の解決が「セカイの謎」の解決に直結する」 *11物語構造が挙げられる。既にTV版の最終二話にこの構造の萌芽が見られるが、明確に定式化されたのはEOEにおいてであろう。
 この映画で主人公の碇シンジは、他者との関係で徹底的に傷つき、心を閉ざしているが、しかし同時に他者と分かり合いたいという想いも捨てきれずにいる。そんな中シンジは人類補完計画に巻き込まれ、世界の在り方を決める権利を与えられる。人類の魂を一つに融合させた世界と、今まで通り他者が存在する世界、どちらを選ぶか迫られたシンジは後者を選択する。
 「自分の謎」と「世界の謎」が直結し、前者が後者を規定するという構造が、ここには明確に看取される。自己を閉ざすべきか、他者と関わるべきか、という碇シンジ個人の葛藤が、世界の在り方を決める選択にダイレクトに繋がっている。そして、自分は他者と関わりたいというシンジ個人の回答が、世界そのものの在り方を決定しているのだ。
 庵野秀明はこの構図を新劇場版においても――恐らくは反省の意を込めて――反復している。ヱヴァ破の終盤において碇シンジは「僕がどうなってもいい。世界がどうなってもいい。だけど綾波は、綾波だけは絶対助ける!」と決意する。そしてQにおいて、シンジのその決断が、現実に世界を滅ぼしていたことが明らかにされる。ここにおいても、個人と世界が直結し、前者が後者を決定するという構図が見られる*12
 「自分の謎」と「世界の謎」との直結。筆者の妄想が正しければ、このモチーフは「シン・ゴジラ」にも明確に見出される。世界を滅ぼすべきか、赦すべきかという葛藤を抱いていた牧悟郎は、ゴジラを放ちつつ、それを封じるヒントを残すことで、世界の上に自らの葛藤と同じ構図の闘争を生み出した。ここにおいて牧悟郎の抱えている内面的な問題と、世界そのものが抱えることになった問題とは、完全に同期している。しかし「シン・ゴジラ」の場合、エヴァとは反対に、「世界の謎」の解決が「自分の謎」の解決に直結しているのである。この映画では、日本対ゴジラの闘争の結末が牧悟郎の内的葛藤の結論に繋がるのであり、その逆ではない。つまり「シン・ゴジラ」は、エヴァと同様の構造を有しつつ、二者の関係を逆転させているのである。

 ホメオスタシストランジスタシス
 では「シン・ゴジラ」の世界=牧悟郎はどのような結論を下したか。それは人類とゴジラとの共存である。劇中の世界はこれからずっと、破壊と変革をもたらすゴジラと、それに抗して自らの秩序を保とうとする人類とが、せめぎ合いつつ、それでも共に生きていくかたちで続いていくのであろう。この結論は、TV版エヴァの次の会話を彷彿とさせる。

ミサト:変わんないわね、そのお軽いとこ。
加持:いやぁ、変わってるさ。生きるって事は、変わる、って事さ。
リツコ:ホメオスタシストランジスタシスね。
ミサト:何それ?
リツコ:今を維持しようとする力と変えようとする力。その矛盾する二つの性質を一緒に共有しているのが、生き物なのよ。

第拾伍話「嘘と沈黙」


 随所で指摘されているが、「ホメオスタシス」は実在する術語であるのに対し、「トランジスタシス」は庵野の造語である*13 。それゆえ上記のリツコの台詞は、庵野自身の生命観、世界観の表明であると言えるだろう。維持しようとする性質と変えようとする性質の共存、それは「シン・ゴジラ」の劇中世界のみならず、この映画そのものの特性をも言い現しているように思われる。
 これまで長々と述べたように「シン・ゴジラ」という映画は、本多映画とエヴァの両者の物語構造を巧みに取り込みつつ、そこに決定的な変化を加えていた。話は物語構造に留まらない。これまで数え切れぬ感想・評論が指摘したように、この映画はあらゆる点で過去の遺産を継承しつつ、同時に全く新しいものを創り出そうとしていたのだ。そして庵野は、その試みに成功した。この映画においては伝統と革新とが、理想的な形で共存しており、だからこそ筆者はこう感じたのだ。「シン・ゴジラ」は、真正のゴジラであり、どうしようもなくエヴァでありながら、しかし新しい何かであると。

 

 

本多猪四郎 無冠の巨匠

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ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ ([バラエティ])

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シン・ゴジラ機密研究読本

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*1:プラトン『国家(上)』藤沢令夫訳、岩波書店岩波文庫)、1979年。

*2:切通理作本多猪四郎 無冠の巨匠』洋泉社、2014年。

*3:切通理作「無冠の巨匠 本多猪四郎(第八回)」(https://goo.gl/yYusxz)を参照。

*4:同上。

*5:切通が提唱した本多作品共通の物語を町山智浩は三角関係として図式化しており、筆者もそれを踏襲している。Youtubeの「【WOWOW】 【町山智浩×切通理作】 無冠の巨匠 本多猪四郎」その1~5を参照。

*6:切通理作本多猪四郎 無冠の巨匠』、145頁を参照。

*7:切通によれば、これに加えてもう一つ、本多映画に頻出する物語定式が存在する。それは「地球規模の危機を前に、世界中が団結する物語であ」(切通理作本多猪四郎 無冠の巨匠』、382頁)り、「地球防衛軍」「宇宙大戦争」「妖星ゴラス」といった作品が代表例である。「シン・ゴジラ」がこのような物語定式も取り入れていることは明白であろう。

*8:「【WOWOW】 【町山智浩×切通理作】 無冠の巨匠 本多猪四郎 その2」(https://goo.gl/537iOc)を参照。

*9:ここでいう二面性とは、あくまで<現代社会>と<怪獣>の両方の要素を有しているという意味である。初代「ゴジラ」でも、物語を構成する三者は全て<加害者>でもあり<被害者>でもあるという点で、明確に二面的な存在である。

*10:個人的な印象としては、初代「ゴジラ」の尾形と山根博士を足して二で割らなかったら矢口蘭堂が出来上がるように思う。

*11:宮台真司「米国での学会用の英語配付資料の日本語版 1992年以降の日本サブカルチャー史における意味論(semantics)の変遷」(https://goo.gl/CFxnTQ)。

*12:ただし、新劇は世界の命運を決定した個人のその後を描き、その責任問題を問うている点で、旧劇とは決別している。

*13:山川賢一『エ/ヱヴァ考』平凡社、2012年、157頁を参照。山川はこの著書の中で「ホメオスタシストランジスタシス」がエヴァの中核をなすテーマの一つであると解釈している。