ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

市民図書館にまつわる自分語り

 思えば、これまでの人生で、ずいぶんと色んな道を走ってきた。国道、バイパス、裏道に獣道。靴底や自転車のホイール越しに感じたそれらの道の感触は、俺の中のいちばん深いところに沈み、今もなお、耳をすませば辛うじて聞こえる位の微かな声で、何か楽しげな歌をうたっている。そんな中、ひときわ大きな声で、ひときわ美しい歌をうたう道がある。定禅寺通りだ。欅と銀杏の鮮やかな並木がどこまでも続くその道を、俺は、どの道よりも深く愛した。特に、予備校時代は毎日のように、自転車を降りて、その道を歩いた。まず眼に入るのが第一生命ビル。それから、緑を基調とした信用金庫。後に名前が何度も変わる宮城県民会館。その次にくるビルの中には、たしかキリスト教書店が入っていて、そこで十字架の聖ヨハネの本を買った記憶がある。そして、ガソリンスタンドの向こうに、空想科学的としか言いようのない、特異な建築物が姿を現す。せんだいメディアテークだ。
 せんだいメディアテーク仙台市教育委員会が運営する複合型文化施設で、建築に疎い俺ではとても表現できないような、ものすごく斬新なつくりをしている。前面ガラス張りで、チューブが網の目のように絡み合って出来た何本かの巨大な柱が、上から下までを貫いている。どこまでも無機的なのに、まるで一個の巨大な原生動物のようにも感じられる、そんな建物だ。真夏の真昼に、住んだガラスの壁に並木の緑が鮮明に反射されているのを見ると、まるで建物が木々の一部になっているように感じられた。そこには確かに息吹があった。そんな建物は、後にも先にもあれだけだろう。
 建物の向かって左にある小さな駐輪スペースに自転車をとめる。入り口を抜けると、視界いっぱいにオープンスクエアが広がる。そのスペースでは日ごと月ごとに色んな催しが行われていた。北欧の画家の個展。チベットの現状を記録した写真展。新人書家の作品展。あの入り口を潜るごとに、俺は知りもしなかった様々な文化に、否応なしに触れることになった。それがどれだけ貴重で豊かなことか、今になってやっと理解できる。
 一階の催しをぐるりと回ったら、向かって左側にあるエスカレーターで上に昇る。2階は新聞雑誌やAV資料を閲覧できるライブラリー。そして3階と4階には、市民図書館が入っている。
 せんだいメディアテーク全体の特徴として、白と銀とが広がる中に、点々と赤が散りばめられていることが挙げられる。市民図書館にしても、床も壁も天井も、机も書架も白か銀なのに、椅子だけは目の覚めるような赤だった。先に述べた太く丸い透明な柱を、赤い椅子がぐるりと囲んでいたのを覚えている。よく、そこに座って本を読んだ。本から目を上げると、ガラス越しに、定禅寺通りが見えた。そこを歩く一人一人の人間に固有の精神と感情と歴史があるのだと思うと、読んでいる本の重みを増した。この活版の文字のひとつひとつの向こうに、血の通った人間が、確かに生きていたのだ。あのころの自分は、そんな風に感じることが出来た。
 もちろん、そこでは沢山の本を読んだ。たとえばエリアーデの「ダヤン」。魔術的な装丁の『エリアーデ幻想小説全集』ももちろん好んだが、この作品に関しては、野村美紀子訳の赤い装丁が印象深い。不死の彷徨えるユダヤ人に導かれ、この世界を超越し、真理の世界へと消えてゆく主人公のダヤンに、俺はどこまでも憧れた。彷徨えるユダヤ人つながりで、ラーゲルクヴィストの『巫女』を読んだのもここだった。また、『ロシアの宇宙精神』を通してフョードロフに初めて出会ったのもここだったし、吉本隆明の「マチウ書試論」に初めて挫折したのもここだった。でも、いちばん印象に残っているのは、シュティフターの「水晶」だ。そこで読んだのは、ポプラ社の『諸国物語』に収められた手塚富雄訳だった。まさに水晶のように煌めく文体で物語られる、小さな兄妹のこの冒険に出会ったときの感動を、俺は決して忘れない。
 さて、本に満足したら、次は映画が観たくなるのが人の常。ということで、お目当ての本を読み終えたら、2階のライブラリーで映画を一本観るのが決まりだった。そこで観た映画はどれも、色彩が印象的な作品ばかりだ。たとえば、ベルイマンの『叫びとささやき』の暴力的な赤。タルコフスキーの『鏡』の中の、吹き抜ける風に波打つ草原の緑。キェシロフスキの『トリコロール/青の愛』も外せない。青みがかった病室の中で睡眠薬を頰張るも、それをぽろぽろと口から零し、どこまでも澄んだ無垢な眼で、死ねなかったと呟いたジュリエット・ビノシュ。そう、ジュリエット・ビノシュに出会ったのもここだった。カラックスの『汚れた血』を通して。
 ここのライブラリーでは、カラックスの『ボーイ・ミーツ・ガール』と『汚れた血』を観た。『ボーイ・ミーツ・ガール』も才気溢れる傑作だったが、『汚れた血』は別格だ。それは、色んな意味で、当時の自分に突き刺さる映画だった。
 冒頭から凄い映画だとは思ったが、主人公のアレックスが夜の道を疾走する場面で、これは唯一無二の作品だと確信した。だが、何よりも、ラストでアレックスが死んだのを観て、俺は本当に揺さぶられた。いや、揺さぶられたという表現は適当ではない。しかし、ではあの時の感情を、どう表せばいいのだろうか。とにかく、俺はそこで大きく動かされた。勝手な思い込みだろうが、俺はアレックスの死を見て、それを作ったレオス・カラックス本人の、死への渇望のようなものを感じてしまったのだ。そう、カラックスは死にたいんだ。少なくとも俺にはそう感じられた。でも、絶望してるから死にたいんじゃない。希望のうちにあるからこそ、死にたいんだと思った。当時カラックスはジュリエット・ビノシュと付き合っていた。いま作っている『汚れた血』が大傑作であることは、本人が一番よく分かっていただろう。あのとき、きっとカラックスは、人生で一番しあわせだったんじゃないかと思う。でも、利口なカラックスはきっと知っていた。人生は幸福ばかりではないと。この先には転落が、悪夢が潜んでいるかもしれないと。ならば、いま死んでしまった方が幸福なのではないか。そんな想いを、俺は勝手に受け取ってしまった。
 いや、違う。俺が抱いていた想いを、勝手に映画に反映させただけだ。
 市民図書館に足繁く通っていたころ、俺は夢を追っていた。夢を追って努力して、それなりに成果も出していた。でも、心のどこかでは分かっていたのだ。自分の夢が叶うことはないと。夢を追う過程は夢のように楽しいけれど、それもいつかは夢のように醒める。そして、夢が醒めても人生は続く。どこまでも無味乾燥な、苦難と退屈に満ちた人生。そんな道を歩くなんて、絶対に嫌だった。だから、あのころ、何となく、夢を追う道半ばで死んでしまいたいと考えることがあった。楽しく幸せな上澄みだけを満喫して、さっさと人生から降りた方がいいのではないかと、そんな風に考えることが、確かにあった。

 思えば、これまでの人生で、ずいぶんと色んな道を走ってきた。この足で、あるいは自転車で、若さに任せて突っ走ってきた。でも今は、たぶんもう走ることは出来ない。少し遠出をすればすぐに疲れるし、前みたいに貪欲に色んなものを吸収したいという気概も消えかかっている。当然だ。俺はもう若くもないし、求めるべき夢も持っていない。ただ、来る日来る日をやり過ごしながら、何とか生きているだけ。そう、あの頃の自分が予期していたように、果たして俺の夢は叶わなかった。そして、消化試合のような人生だけが残った。かつて、死をもって忌避したいと、半ば本気で願った道。でも、今も俺は生きている。これからも生き続けるだろう。もう二度とあの頃のように突っ走ることは出来ないけれど、かつて心震わされた曲を聴いて、同じように深く、でも全く違ったように奮い立つことは出来る。ならば、それでいいんだと思う。それだけあれば、きっとやっていける。

There's no sign of life
It's just the power to charm
I'm lying in the rain
But I never wave bye-bye

But I try
I try

生きてることを示すものは何もない
誘惑してくる力に過ぎない
俺は雨のなか突っ伏してるけど
でも手を振って別れるつもりはない

やってやるさ
やってやるよ

David Bowie, Modern Love

【歌詞和訳】Cliff Richard and The Shadows / Summer Holiday

 穏やかな幸せに溢れた曲。自分の中で夏休みっつったら、大江千里のアレかこの曲ですね。いやですね、俺にだって青春満開の夏休みなんてのもありましてね、ダチ公と海に行ったり山に行ったり映画に行ったり楽しかったっすねえ。そういう、たぶん誰もが少しは経験したであろうしあわせが、見ごとに詰まった曲だと思います。最高。クリフ・リチャードほんまにイケメン。

 ちなみに、弊社には夏休みはありません。

 

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【詩和訳】ハリール・ジブラーン『狂人』より「完全な世界」

 なんか久しぶりにハリール・ジブラーンのThe Madmanを訳してですね、やろうじゃないかというコーナーですね。テクストはみんなのヒロインProject Gutenberg Australia*1です。今日訳したのは "THE PERFECT WORLD"という作品。この詩集の最後を飾る詩篇です。完璧な秩序によって統制されたこの世界に対する違和感が表明されています。このような、自分が住む世界への違和感が正しく方向づけられると、それは、ここにはない何かへの憧憬となる。そして、その憧憬にかたちを与えると、詩になるんじゃないでしょうか。なんか読んでて、そんなことを感じました。なんつってつっちゃった。

 

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【歌詞和訳】The Mills Brothers / Paper Doll

 三次は糞! やっぱ二次元嫁最高! という内容の曲です。これが戦前の曲だっていうんだから、メリケンさんの先見性には目をみはるばかりです。ギブミーチョコレート。ただ、この曲の"I"は俺たち限界オタクみたいに、三次元の女性から見向きも去れないのでフィギュアに走った訳ではない様です。むしろ、豊富な女性経験から、やっぱ三次はないっすわ、二次元最高っすわ、という結論に至ったようです。なにそれカッコイイ。

 ちなみに、この曲ではやったらめったら"doll"って単語が使われるんですけど、これって「人形」と「人間の女性」のどっちの意味も含んでて、かなりややこしいんですよね。とりあえず何とか自分なりにくみ取って訳してみましたが、まああんまり信用しないようにおねげえしますだ。

 

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「地方創生のリアル」の記事を読んで、日本のキリスト教の現状そのものだと痛感した話

 Twitterを覗いてたら、こんな記事が話題になっていた。

toyokeizai.net
 衰退している地方の中には、有能な若者を自ら排除する構造を孕んだところが多々あり、そのせいで自らの首を締める結果になっていることが指摘されていた。若者に来てほしい、と言いながら、自分の価値観に合わない人間は排除する。自分より年下だからといって、若者に理不尽なかたちで仕事を押し付け、文句を言えば「我慢が足りない」と上から目線で批判する。駄目な地方の上役たちは、若者が欲しいと言いながら、そんな理不尽な振る舞いをしているという。

 さて、自分はこの記事を読んで、日本のキリスト教の教会が衰退しまくっているのも、ここで指摘されていることが大きな要因だろうなあと痛感した。自分は昔プロテスタントの教会をいくつか渡り歩いたのだが、結局は挫折して、今はほぼ無信仰者となっている。棄教した理由はいくつか挙げられるが、この記事で指摘されているような理不尽な目に散々あったことも大きい。

 いま日本の教会の高齢化は凄まじい。自分が前に通っていた幾つかの教会は、出席者の大半が60歳以上の高齢者の方だった。40代で若者と呼ばれ、20代30代の人が来たら大騒ぎするような状態だった。いまの日本の人口を占めるキリスト教徒の割合は1%以下というが、この調子で行くと、20年後には0.1%を割るんじゃないかと思う。それゆえ、若者の確保は教会にとって最優先事項である。実際、現場もそれを分かっていて、色んな話し合いの場では、どうすれば若い人が来てくれるか、という話題が必ず取り上げられていた。しかし何というか、根本的にずれてるんじゃないかという感覚を当時から抱いていた。それが何なのかはっきりとは分からなかったが、先の記事がそれを見ごとに言語化してくれていた。

 教会の牧師や上の人たちが若者に来てほしいと言う時、それは、教会の仕事を担ってくれる人材が欲しい、ということを意味している。教会の中っていうのは実は色んな仕事がある。会計をしたり、イベントを仕切ったり、子供の宗教教育をしたり云々。そういう仕事が信徒にけっこう振られている。こういうのはかなり責任が伴い、プレッシャーも大きい。だから、高齢者の人たちはやりたがらない。そこで、働き盛りの人が来たりすると、その人に一気に押し付けられたりするのだ。

 自分がかつて通っていた教会の例。30代の男性が洗礼を受け、正式に教会員となった。すると、牧師と高齢者の信徒の上役がすかさずその人に、教会の重要な役職を担うよう迫ったのだ。その人は仕事が忙しいからと渋ったが、神様や教会のことを思うなら断れないはずだと牧師たちは言い、かなり無理やりなかたちで承諾させた。以後、その人には碌に引き継ぎもないまま大量の仕事が振られた。ミスをすると集会で批判され、自分の仕事が忙しくなって教会が疎かになると無責任と詰られた。結局、その人は一年でいなくなった。もう二度と教会には行かないと俺に言っていた。そして、牧師や高齢者の方々は、あいつは信仰が足りない等々と文句を言っていた。

 自分たちの価値観や大量の仕事を無理やり押し付け、相手のことを理解しようとせず、何かあれば上から目線で批判する。そうして、若い有能な人材を自ら排除する。先の記事で指摘されていた構造が、そっくりそのまま例の教会に当てはまることは言うまでもないだろう。そして、あくまで俺が知ってる限り、どの教会にも多かれ少なかれこういう傾向が見られ、それが自らの首を絞める結果となっていた。

 教会の場合に特に深刻なのが、上の人たちがそういう理不尽なことを「信仰」とか「神」によって正当化していることだ。神様を信じているなら、これくらい出来るはずだ、こういうことをしてくれるはずだ。そういう思いが、教会の高齢者の方に割と見られるように思う。これは明らかに自分の考えを宗教によって正当化しているだけなのだが、宗教が絡んでいるだけに、本人は自分を疑ったりしない。それゆえ、地方の商店街とかよりも、問題の根は深いように思う。

 そういう姿勢が本人の「信仰」として確立されてしまっている以上、他の人間がとやかく言っても、それが是正されることはないだろう。世代交代すれば少しはマシになるだろうが、はたして、いま教会を支えている世代がゴソッといなくなったとき、若い人材を受け止める体力が日本のキリスト教に残っているか、甚だ怪しいように思うのです。

【歌詞和訳】Blue Lou

 アート・テイタムの演奏で知りましたけど、可愛らしくて大好きな曲です。ルーっていうのはルイーズとかルイーザとかの愛称なんだそうで。英米圏のこういう愛称のつけかたってお茶目でいいっすよね。ちなみに、自分の中でのブルーなルーのイメージは『カビリアの夜』のジュリエッタ・マシーナ。あれもいい映画だったなあ。

 

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今日という日に、ゴジラについて――あるいは、不幸にも『シン・ゴジラ』が傑作となってしまった件について

ゴー! ゴー! 123 3456
345678 ギャー!
怪獣サマのお通りだ
カッコよくなんでも ブッ飛ばせ!
ゴーゴー ゴジラ放射能
ミ ミ ミニラも ポーッポーポ
ドッスン ガッタン ドッスン ガッタン
みんなこわしてしまうけど
ごめんよ かんべん おれたちも
生きてゆくのは きびしいさ

 

佐々木利里「怪獣マーチ」*1

 

*1:名曲。

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