ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

「地方創生のリアル」の記事を読んで、日本のキリスト教の現状そのものだと痛感した話

 Twitterを覗いてたら、こんな記事が話題になっていた。

toyokeizai.net
 衰退している地方の中には、有能な若者を自ら排除する構造を孕んだところが多々あり、そのせいで自らの首を締める結果になっていることが指摘されていた。若者に来てほしい、と言いながら、自分の価値観に合わない人間は排除する。自分より年下だからといって、若者に理不尽なかたちで仕事を押し付け、文句を言えば「我慢が足りない」と上から目線で批判する。駄目な地方の上役たちは、若者が欲しいと言いながら、そんな理不尽な振る舞いをしているという。

 さて、自分はこの記事を読んで、日本のキリスト教の教会が衰退しまくっているのも、ここで指摘されていることが大きな要因だろうなあと痛感した。自分は昔プロテスタントの教会をいくつか渡り歩いたのだが、結局は挫折して、今はほぼ無信仰者となっている。棄教した理由はいくつか挙げられるが、この記事で指摘されているような理不尽な目に散々あったことも大きい。

 いま日本の教会の高齢化は凄まじい。自分が前に通っていた幾つかの教会は、出席者の大半が60歳以上の高齢者の方だった。40代で若者と呼ばれ、20代30代の人が来たら大騒ぎするような状態だった。いまの日本の人口を占めるキリスト教徒の割合は1%以下というが、この調子で行くと、20年後には0.1%を割るんじゃないかと思う。それゆえ、若者の確保は教会にとって最優先事項である。実際、現場もそれを分かっていて、色んな話し合いの場では、どうすれば若い人が来てくれるか、という話題が必ず取り上げられていた。しかし何というか、根本的にずれてるんじゃないかという感覚を当時から抱いていた。それが何なのかはっきりとは分からなかったが、先の記事がそれを見ごとに言語化してくれていた。

 教会の牧師や上の人たちが若者に来てほしいと言う時、それは、教会の仕事を担ってくれる人材が欲しい、ということを意味している。教会の中っていうのは実は色んな仕事がある。会計をしたり、イベントを仕切ったり、子供の宗教教育をしたり云々。そういう仕事が信徒にけっこう振られている。こういうのはかなり責任が伴い、プレッシャーも大きい。だから、高齢者の人たちはやりたがらない。そこで、働き盛りの人が来たりすると、その人に一気に押し付けられたりするのだ。

 自分がかつて通っていた教会の例。30代の男性が洗礼を受け、正式に教会員となった。すると、牧師と高齢者の信徒の上役がすかさずその人に、教会の重要な役職を担うよう迫ったのだ。その人は仕事が忙しいからと渋ったが、神様や教会のことを思うなら断れないはずだと牧師たちは言い、かなり無理やりなかたちで承諾させた。以後、その人には碌に引き継ぎもないまま大量の仕事が振られた。ミスをすると集会で批判され、自分の仕事が忙しくなって教会が疎かになると無責任と詰られた。結局、その人は一年でいなくなった。もう二度と教会には行かないと俺に言っていた。そして、牧師や高齢者の方々は、あいつは信仰が足りない等々と文句を言っていた。

 自分たちの価値観や大量の仕事を無理やり押し付け、相手のことを理解しようとせず、何かあれば上から目線で批判する。そうして、若い有能な人材を自ら排除する。先の記事で指摘されていた構造が、そっくりそのまま例の教会に当てはまることは言うまでもないだろう。そして、あくまで俺が知ってる限り、どの教会にも多かれ少なかれこういう傾向が見られ、それが自らの首を絞める結果となっていた。

 教会の場合に特に深刻なのが、上の人たちがそういう理不尽なことを「信仰」とか「神」によって正当化していることだ。神様を信じているなら、これくらい出来るはずだ、こういうことをしてくれるはずだ。そういう思いが、教会の高齢者の方に割と見られるように思う。これは明らかに自分の考えを宗教によって正当化しているだけなのだが、宗教が絡んでいるだけに、本人は自分を疑ったりしない。それゆえ、地方の商店街とかよりも、問題の根は深いように思う。

 そういう姿勢が本人の「信仰」として確立されてしまっている以上、他の人間がとやかく言っても、それが是正されることはないだろう。世代交代すれば少しはマシになるだろうが、はたして、いま教会を支えている世代がゴソッといなくなったとき、若い人材を受け止める体力が日本のキリスト教に残っているか、甚だ怪しいように思うのです。

【歌詞和訳】Blue Lou

 アート・テイタムの演奏で知りましたけど、可愛らしくて大好きな曲です。ルーっていうのはルイーズとかルイーザとかの愛称なんだそうで。英米圏のこういう愛称のつけかたってお茶目でいいっすよね。ちなみに、自分の中でのブルーなルーのイメージは『カビリアの夜』のジュリエッタ・マシーナ。あれもいい映画だったなあ。

 

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今日という日に、ゴジラについて――あるいは、不幸にも『シン・ゴジラ』が傑作となってしまった件について

ゴー! ゴー! 123 3456
345678 ギャー!
怪獣サマのお通りだ
カッコよくなんでも ブッ飛ばせ!
ゴーゴー ゴジラ放射能
ミ ミ ミニラも ポーッポーポ
ドッスン ガッタン ドッスン ガッタン
みんなこわしてしまうけど
ごめんよ かんべん おれたちも
生きてゆくのは きびしいさ

 

佐々木利里「怪獣マーチ」*1

 

*1:名曲。

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新海誠『言の葉の庭』――空から降る一億の新海汁

きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。

 

須賀敦子ユルスナールの靴』

 

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【歌詞和訳】Barry Gray / I Wish I Was a Spaceman(宇宙船XL-5エンディングテーマ)

 サンダーバードで有名なジェリー・アンダーソンの手掛けた痛快スぺオペ特撮人形劇『宇宙船XL-5(Fireball XL5)』のエンディングテーマを訳してみました。曲を聴いた限りふわーんとした感じの何とも軽快な曲っぽかったのですが、きっちり歌詞と向き合ってみたら、これがまた泣けること泣けること。どんな時でも夢を見ることの大切さみたいなのを教えられました。あーーーいい曲だなあ。

 ちなみにこの『宇宙船XL-5(Fireball XL5)』ですが、版権が複雑なのか、それとも需要がないのか分かりませんが、未だに日本でまともにソフト化されてないっぽいです。勘弁してよーーー。キャプスカとかスティングレイがいけるだったらこれもいける! 東北新社さんお願いします宇宙船XL-5とスーパーカーのボックス出してください何でもしますから!

 

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泉図書館にまつわる自分語り

 その朝、唐突に学校をサボろうと決めた。確か高校の決まりでは、三分の二以上出席していれば進級・卒業できるはずだった。一日くらいサボっても死にはしない。なら今日はサボろう。そう決めた。
 何食わぬ顔で朝食を食べ、何食わぬ顔で弁当を受け取る。まずは薄手の私服を着て、その上から制服を着る。行ってきます、行ってらっしゃい。誰もいない自転車置き場で素早く制服を脱ぎ、空の鞄に詰める。準備完了だ。気温は程よく涼しくて、空は抜けるように青い。絶好のサイクリング日和だ。どこへ行こう。遠くがいい。遠くて、学校をサボった甲斐があったなと実感できるところがいい。なら泉だ。家から泉まで自転車で二時間。途中には魅力的な風景がたくさんある。ゆっくりと走りながら色んなものを見て、それから、泉図書館で何か観るなり読むなりしよう。
 あのとき住んでいた家から泉図書館まで、どのような道を通って走ったのか、今はもう大分忘れてしまった。まずは仙台まで行って、やたらと緑の多いところをまっすぐ行ったところまでは辛うじて覚えているが、そこからが曖昧だ。アスファルトで舗装された崖の横を走った記憶があるが、もしかしたら秋保へ行く道と混ざっているかもしれない。確か、途中にドン・キホーテがあった。坂の激しいところがあって、郵便局とグリーン・カレーの店があった。春にフリマが開催される大きな公園を横切った気がする。それらは全て、今やおぼろげだが、その時に覚えた感情は、今もかなり鮮明に残っている。どんな風景か覚えてなくても、そのときの空気の感じ、風の香り、心地よい疲れは失われずにいる。とにかく、道中は楽しかった。他の連中が授業を受けているのに、自分はひとり自転車をこいで、自分の行きたい場所に向かっている。堪らなく自由だった。
 やがて、ベガルタ仙台のホームスタジアムが目に入る。いつ見てもデカい。それを過ぎると牛丼屋があり、そしてこども宇宙館が目に入る。左に曲がる。泉図書館に到着だ。時刻は昼前。ようやく着いた。
 泉図書館には数えるほどしか行ったことがない。でも、割とコアな本を読んだことは覚えている。たとえば、カール・バルトの『ローマ書』に初めて挑戦したのはここだった。今に至るまでこの本に何度も挑んでは、何度も敗れている。最初にその難渋さに打ち負かされたのは、この図書館の机でだった。また、ハンス・ヨナスの『グノーシスの宗教』を通して、グノーシス主義なるものに出会ったのも、この図書館でだった。後に自分はシモーヌ・ヴェーユに傾倒し、大学では古代末期の思想を専攻することになるが、その端緒はもしかしたら、この一冊との出会いにあったのかもしれない。
 でも、何よりも泉図書館は、フェリーニの『道』を初めて観た場所として、自分の中に刻み込まれている。観たのは、そう、ちょうどまさに学校をサボったあの日だった。そのとき自分がこの作品から受け取ったものは、あまりに大きく、眩しくて、とても俺の拙い文章で伝えきれやしない。ただ、何よりも、「石ころに意味が無ければ、空に輝く星にも意味が無い」という台詞が、当時の自分に突き刺さったことだけは、とりあえず書き残しておきたい。
 夕方になった。帰るのにまた二時間。あまり遅くなると疑われるし、そろそろ出ることにする。図書館から出ると、こども宇宙館が見える。そういえば、むかし家族と宇宙館に行ったことがあったっけ。確かそこで、俺は月の石を触った。アポロだか探査機だかが、あの月から持ち帰った本物の石を。ふと顔を上げると、夕暮れの空に月が浮かんでいた。昔と今が、天と地が、ゆるやかに交差し、絡み合った。今日はいい日だ。そう思った。そして今でも、そう思っている。

 

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【詩和訳】ハリール・ジブラーン『狂人』より「与えることと受け取ることについて」

 東京じゃない場所で消耗してるけどハリール・ジブラーンのThe Madmanを訳したっちゃったのコーナーです。テクストはほんがたくさんなフレンズのProject Gutenberg Australia*1です。今回訳したのは'On Giving and Taking'という小品。金持ちほどケチ臭い、ってだけの話じゃないんでしょうねえ。

 

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