ΕΚ ΤΟΥ ΜΗ ΟΝΤΟΣ

熱い自分語り

遠くに行きたい

 勉強してみたいことが沢山ある。山ほどある。イタリア語を勉強してモンターレやウンガレッティを読みたい。スペイン語を勉強してパスやネルーダの詩を、イガルのプロティノス論を読みたい。コイネーをもう一度きちっと修めて、プロティノスに取り組みたい。やるならどこか遠くでやりたい。どこか遠くに行きたい。
 寝る前に石川博品の『先生とそのお布団』を読んだ。引っ越ししてしばらくして、県内で一番でかい図書館で借りたな。染み入るような感動と、そして羨望。俺はオフトンのはずが、間違えてその兄の生き方を選んでしまった。小説家か、まともな会社員か。作品内では前者の目線から、後者への羨望と、それでも自分はこうとしか生きれないという矜持が描かれていた。俺は結局、どちらにもコミットできぬまま、宙ぶらりんで生きていくのだろう。
 今の仕事に決まったとき、自分はこの道で生きていくのだと悟った。納得のいく仕事だと思った。下宿から自転車で一時間かけて夜の海に行き、そこで母に電話をした。自分はまっとうな社会人として生きて行くよと。夜の浜辺には老夫婦が座っていた。あんなふうになりたいなと思った。
 思想史では生きていけない。文学では、芸術では生きていけない。手に職をつけなきゃいけない。わかってる。わかってるんだ。運よく社会に受け入れられた。俺よりも優秀な人間が、ある世代に生まれたというだけで泥をすするような生活を強いられている。俺はついていた。わかってるんだ。そんなことはわかってるんだよ。
 わかってるんだよ。たとえ自分の望む進路が叶ったとしても、しばらくすればその道ならではの雑事や苦悶に飲み込まれ、愚痴しか溢せなくなるものだ。どこに行ってもひたすらに隣の芝が青いまま。そうやって進み続ければいつかは崖から落ちる。わかってるんだよ。わかってるから踏ん張ってんじゃねえのか。
 自分の選んだ道はこの上なく堅実で、でもだからこそ息苦しい。この程度で嘆いていたら世人に石を投げられるだろうが、これはもう適正の問題なので仕方がない。でも、詩や創造のない世界はあまりにも無味乾燥過ぎる。甘い水を俺は飲みたい。
 最近は休日は寝て終わる。一日が終わって、布団に入って、あまりの虚無に背筋が凍る。そればっかりだ。参ったよ。次の休日こそあれしようこれしようあすこにいこうこれをみようと、考えて、でも考えるだけ。そろそろ考えるのも疲れてきた。
 俺は自由と尊厳を売って金を貰っているのだ。その貯金はいつまで持つだろうかね。
 辛いとき、遠くに行きたい遠くに行きたいとうわ言のように繰り返す、ただそればかりの人生だった。遠くに行きたい遠くに行きたい、そう願って、そして実際にずいぶん遠くまで来てしまった。それでも思うのだ。遠くに行きたいと。これ以上行くところもないのにさ。
 どっか遠くに行きたいなあ。ちきしょう。

新海誠『天気の子』――夏の終り

『天気の子』を観た。前作以上の大傑作だったので、取り急ぎべた褒めしておきたい。

  新海先生の最大の才能は、老若男女問わずどんな観客も少女に恋する少年の視点に没入させてしまう点にある。ヒロインの天野陽菜はガワだけみるとパンチが弱くて、ぶっちゃけ広告とかだとあんまし映えない。でも映画本編だと魔法のように美しくて眩しくて、一瞬で心を奪われてしまうのだよ。それはこの映画においてこの少女は徹底して彼女に恋する主人公の帆高少年の視点を通して描かれているからだ。16歳の思春期真っ盛りの少年の恋のフィルターの威力たるや神憑り的で、彼女の一挙一動すべてがファンタジーのように思えるんだけど、それはあくまでも少年の主観で、本来だったらその視界は他人と共有できる類のものではない。でも、新海先生の魔法はそれを可能にしてしまうんだよ。

 この魔法が今回存分に力を発揮できたのは、帆高少年が本当にいい奴で、いっぺんにこいつを好きになれたからだ。おかげで彼に感情移入をするのになんの障害もなかった。彼は陽菜の能力と困窮を知って、晴れ女をビジネスにすることを思いつく。もちろん彼は陽菜のビジネスパートナーとして利益は得ている。でも、その共働関係の中で、彼は一度も自分のために陽菜に祈らせることはしない。ただただ彼女のために、そして彼女が人のために能力を使うことをサポートし続ける。そして、彼女がテレビに写ったとなると、スパッと晴れ女から手を引く決断ができる。これを映画はさも当たり前のように描いてるけど、その姿勢はみてて本当に気持ちがいい。

 なんで少年がそんなことをしないかっていうと、彼の恋にとって少女の天候操作能力なんか副次的なものに過ぎないからだ。確かに天に向かって彼女が祈る姿は美しいし、それによって空から差す光の眩しさは奇跡のようだった。でも、帆高にとっては、夜のマクドで彼女がくれたビックマックのほうがよっぽど奇跡だったろうし、自分の差し入れたポテチとチキンラーメンをご馳走に変貌させる彼女の手さばきのほうが、よっぽど眩しかったろう。

 こういうところを説得力をもって描けているからこそ、「グランドエスケープ」が高らかに響くあのシークエンスが活きてくるのだ。俺はそれまでの一時間何十分で、帆高少年をいっぺんで好きになり、彼に共感し、彼の視点を抵抗なく受け入れ、そして、その視点を通して、天野陽菜に彼とともに恋をする。ここで少年は、少女に願うのだ。世界なんて狂ったっていい。きみに戻ってきてほしいのだと。これはまさしく俺の願いでもあった。俺の叫びでもあった。

  思えば、キモオタの俺は「彼女」を失ってばかりいた。俺にとっての原体験は『イリヤの空、UFOの夏』だった。これまでの読書体験の中で、あんなに主人公に感情移入したことはない。俺は浅羽少年とともに伊里野加奈に恋をし、そしてあの南の島で、浅羽少年とともに叫んだのだ。「伊里野が生きるためなら人類でも何でも滅べばいいんだ!!」*1と。しかし彼女は、まさしくこの叫びのゆえに、世界を救うために空に消えた。願いが叶うことはなかった。

 それから俺は数多の物語で数多の「彼女」を失い続けた。桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』なんか読んだ日にゃ晩飯が喉を通らなかったな。2009年には庵野がヱヴァ破でようやくこの夏から俺たちを解き放ったかに見えたが、2012年のヱヴァQで無事にまた崖から突き落とされた。いくら祈っても願っても、クソデカ綾波が横たわる海岸から、伊里野を失ったあの夏から、抜け出せることは決してなかった。

  でも、あの雨によって、ようやくその夏が終わったのだった。

  また雨が降り、東京が沈み、そして少女は力を失った。数年ぶりに出会った天野陽菜はあの坂でそれでも祈っていた。もう叶うことのない祈り、無駄な祈り、虚しい祈りだ。なのに、彼女のそんな祈りの姿は、それまでのどの場面にもまして、帆高の、そして俺の心を打った。それで帆高は陽菜に言うのだ。二人ならきっと大丈夫だと。ぶっちゃけぜんぜん大丈夫じゃない。大丈夫じゃないんだけど、でも、彼女のためにそう言い切ってみせる。たぶんこのときようやく帆高は、少年でなく青年になったのだろう。そして流れるRADWIMPSの「大丈夫」。ここでその歌詞は反則だよなあ。

  これ書いてたらまた観たくなってきたよ。レイトショーで行くかな。でも今日台風なんだよなあ。いや台風だからこそ行くべきなんかな。ううむ。

 

 

小説 天気の子 (角川文庫)

小説 天気の子 (角川文庫)

 
天気の子

天気の子

 

 

ミニマ・モラリア

 青春は呪いだ。青春できなかったから呪われたのではない。青春が出来る条件がだいたい揃っていたにもかかわらず、そしてそれを実際に享受したにもかかわらず、それゆえに生きる苦しみが飛躍的に上がってしまったという経験が逃れられぬ呪縛となってしまったのだ。
 家でツイッターやってるのが結局は平安であり、図書館でひとりマックス・エルンストの画集を読んでいたことこそが俺にとっての青春だった。そう肯定できるまで、それなりに時間を要した。
 まあでも、大学生のときに人間関係らへんでさんざん失敗を重ねることが出来たのは、今となっては僥倖だったかもしれない。あれのおかげで、自分にはなにが出来てなにが出来ないかを学べたし、それによって、社会に出る前にいろんなことを諦めることが出来た。選択と集中。社会に出てからは、それなりに適切にリソースを配分できていると感じる。出来ないことは最初からある程度諦め、出来そうなことにはそれなりに力を注ぐ。その御蔭で、なんとか悪くないポジションに落ち着くことが出来た。
 人生がつまらない。今人生がたまらなくつまらないのは、たぶん、大きな失敗がもうできないと自覚して、失敗しそうな挑戦を適切に避けていることも影響しているだろう。ここくらいまでなら多分出来るはず、というところまでしか移動していない。だからどきどきわくわくがないのだろう。でも、この年になってこの地位になって、崖から落ちるマネはもうできないのだ。
 いろんな創作物を鑑賞していると、おとなになっても安全な領域を飛び越える連中がたくさん出てくる。そう生きろと言ってくる。確かに、人生を燦めかせるためには、それが一番確実な方法だろう。そして、それを作っている人たちは、現にそうしてきた大人なのだろう。でも、誰もがそう生きれるわけではない。そう生きれるわけではないのだ。
 昔は、自分だけは違うと思っていた。むしろ、安全な領域にいることが出来ない人間だと思っていた。だから、そういう創作物を、最大限の共感をもって享受していた。でも、おとなになってみると、自分もありふれた社会人に過ぎないことがわかった。そして、ありふれた社会人であることの有り難さが、今はどこまでも沁み入るのだ。だからこそ、この年になると、そういう創作物を享受するのが辛くなる。俺は、あなた方みたいに生きれるわけではないのです。この世の中の大半はそうだ。そういう生き方をつまらないと否定する権利が、どうしてあなた方にあるのですか。
 世の中には、他人に美しい夢を見せることで飯を食っている人間がいる。いいことだ。いいことなんだけど、その夢と現実との折り合いの付け方を誰も教えてはくれないのだよ。だからその間で軋轢が起こって、現実で悲惨が発生するはめになるのだ。
 俺に言わせりゃあなあ、どいつもこいつも諦めるなと言い過ぎなんだよ。どこかの時点で諦めることをひとつの美徳としてきちんと描くべきなんだ。凡人が挑戦するには上限がある。非凡な人間なら限度はないかもしれない。そして自分は非凡なのかもしれない。でも、そう信じて結局凡人だったとき、割りを食うのは自分だけなのだよな。
 自分はある年齢までは己を非凡と信じ挑戦し、そして全部失敗した。それでも諦めきれなかったが、最終的には親のたっての願いで道を変えた。あのY字路で右に行くのを諦めたとき、確かに俺の青春が終わったのだ。左に進んでからの人生は結構うまくいった。そして、そこに進んでからの人生で、それまでの青春で培ったことは、ぶっちゃけあんまり役に立たなかった。今は今の努力と勉強を積み重ね、ちゃんとそれが実ってはくれている。でも、なんというか、賽の河原で石を積んでいる気分があるのも確かだ。あれまでの十年間、必死になって積み重ねたものが一瞬で瓦解して、また一から新しい石を積み直していることに、どうしても虚しさを抱かずにはいられないのだ。
 勝とうと思えば負けることもある。でも、はじめから勝とうと思わなければ、負けることもないケースもある。後者も確固たる生き方なのだ。いかに美しい夢を見ているときでさえ、それを否定してしまうと、きっと後で自分に帰ってくる。

須賀敦子と俺

「コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
 若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」

 須賀敦子を初めて知ったのはたぶん高校生の頃で、当時熱心に読んでいた松岡正剛の千夜千冊を通してだった。いま読み返すと大した書評ではないが、コルシア書店のあのうつくしい末尾を引用してくれただけで大いに価値がある。その文章に心惹かれ、確か学部生の頃に一度コルシア書店を手にとってみたのだが、そのときは大してピンとこなかった。読み返したのはいつだったろうか。学部四年か、院の頭か。何が作用したのかはよくわからないけれど、むかし読んだときは閉ざされていた彼女の声が、急にはっきりと聞こえるようになった。
 彼女に没頭するようになったちょうどその頃、俺は大学の先生に留学を勧められた。夏の終わりか、秋の初めか。そのときは無茶だろうと断ったけれども、先生は是非にと食い下がった。それから何ヶ月か、そのことを考えに考え、調べに調べ、その年が終わる直前に、やってやろうと決心した。大学院棟のPC室で、外はもう暗かった。今でもはっきりと覚えている。
 ヨーロッパに行く。そう決めてから、須賀敦子が自分にとってさらに重大な位置を占めるようになった。戦後間もなく、単身でヨーロッパに渡り、キリスト教を核としつつ、ひろく文学思想と、そして人間なるものを学んだ彼女に、俺はとうぜん自分を重ねた。無論、ヨーロッパで学ぶことの意味は、当時と今では、彼女と俺では、まったく違うことは明白だった。それでもなお、彼女がフランスで味わった孤独や、イタリアはミラノで得た生の実感を、自分はまるで我が物のように受け取った。これをこれから、自分は経験するのだと。そして、それをくぐり抜ければ、こんな作品を、自分も残せるようになるのだと。そんなふうに、無邪気に信じていた。 

 彼女は夫の死について多くを語らない。それは彼女の作品群において、大きな空白として提示されている。俺たちは当然、それを知りえない。だから、その空白は同時に、眼を覆う闇でもある。ユルスナールの靴の中で、そういえば、霊魂の暗夜に彼女は言及していた。つまりは、そういうことなのだろう。
 暗夜だの闇だのといった瀟洒な表現はもったいないけれど、でも、自分にとっての留学の挫折は、まあ、それに近いものだったと思う。それはつまり、自分がこう生きたいと何年も夢に見ていた道が、はっきりと、二度と戻らないかたちで崩壊したことを意味していた。大きな空白に飲み込まれたようだった。
 茫漠たるあの虚無の上に、あれから俺は、こつこつと、苦労しながら道を敷いてきた。その過程では、究極的には、誰にも頼ることができなかった。でも、それで良かったらしい。誰かに頼ろうと必死になっていた学生時代よりも、それを諦めた今のほうが、人生はずっとうまく回っている。
 思えば、学生の頃は、誰かに頼られ、誰かに頼るという関係に憧れていたように思う。それはきっと、孤独極まる青春を過ごした自分のうちに芽生えた怪物だった。そいつはマンガだの宗教だのといったかたちで世にはびこる神話を糧に肥大し、そして俺を破滅に追いやった。しかし皮肉にも、その破滅を経たおかげで、俺は、ひとりでしか生きることのできない自分を受け入れることが出来るようになった。そのとき、ようやく俺の人生が始まったのだと思う。
 そう、たしかに孤独は、かつてあんなに恐れたような荒野などでは決してない。まさしく彼女の言ったとおりだ。でも、だとしたら何なのだろうか。それについて彼女は、夫の死と同様、ゆたかな沈黙を貫いている。そこまで言ったら、やぼってものでしょ、そんなふうにほほえみながら。

【歌詞和訳】When Sunny Gets Blue

 あけおめ。仕事行きたくない。仕事行きたくないのでバーブラ・ストライサンドを聴いています。彼女の歌声を聴いている間は、やなことも全部忘れられますね。そんな感じです。今年もよろしく。

 

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melancholy, around the world

 大学前駅に着いたとき、時刻は五時を回っていた。改札を出ると、授業の終わった学生の群れが、まるで何の悩みもないみたいに笑って話し合いながら、いまさっき俺が出てきた改札にみんな吸い込まれていった。その群れは駅の出口を抜けても、大学へと続く細く長い道をどこまで行っても途切れない。みんな自分が世界の中心みたく思っているのか、誰も道を譲ったりしないので、仕方ないから俺は道の端を、身をちぢこませてこそこそ歩く。やがて大学の門に着く。警備員が、交通ルールを守って帰ってくださいと声を上げている。並木道を抜け、横道に入り、図書館の前に着いたとき、もうすでに一本の映画を観終えたような気分になった。

 要約。今日は有給。正午に起きて、家で飯食って、駅で金をおろして、メロンブックスで同人誌を買って、某大学図書館でアルトマンの『ロング・グッドバイ』を観た。

 昨夜はもっと早く寝るつもりだったが、ダラダラとネットサーフィンをするうちに、いつのまにか0時を回っていた。エイヤッと気合を入れてPCの電源を切り、山のように積もった洗濯物のうち、まず三分の二を洗濯機にぶち込み、液体洗剤を惜しみなく注いで電源を入れた。終わるまでたぶん四十分くらい。その間に風呂とトイレの掃除をし、それから軽くシャワーを浴びた。体を拭いて耳を綿棒で掃除していたらちょうど洗濯が終わった。ベランダにつながる窓を開けたら、冷気がひゅっと入ってきて、それから、雲ひとつないきれいな空が見えた。無名のかたちをした月と、いくつかの星がまたたいていた。ここは田舎だ。夜になると、これくらいの星は見える。
 それからもう一度洗濯をして、結局眠ったのは午前三時。どんな夢を見たのかは、たぶん、覚えていない。たぶん、というのは訳がある。図書館だか書店だかで、複数掛けの椅子に座っていたら、そこに座っていたカップルの女が何故か俺にもたれてくるという夢を見て、それが頭にこびりついているのだが、果たしてそれを見たのは一昨日なのか昨日なのか今日なのか判然としないのだ。それにしてもあの夢は、何か知らんが強烈だった。今までに見た夢の中でも十指に入るほどエロかった。

 前述の通り、午前三時に寝た。そっからいったん午前五時に目が覚めた。それからOFFにし忘れたスマホの目覚ましに午前六時に起こされた。そのあと午前八時にもっかい目が覚めて、最終的にちゃんと起きたのは正午だった。
 これを睡眠と呼んでいいのだろうかね。

 朝/昼飯。近所のロヂャースで買った餃子。近所のロヂャースで買った豆腐。近所のロヂャースで買った麻婆豆腐の元。近所のロヂャースで買った米。近所のロヂャースで買った納豆。近所のロヂャースで買ったキムチ。近所のロヂャースが潰れたら、俺はどうなってしまうのだろう。

 飯食って皿洗って昨晩干した洗濯物を取り込んだら、もう午後三時を回っていた。自由に使える残り時間を指折り数え、余りに非情な現実に打ちのめされる。休みが一日だけなんて人権侵害だ。アマルティア・センに訴えたら、きっと人間の安全保障に反していると声を上げてくれるだろう。確かに今の会社はそれなりに休める方だ。しかし、それなりに休めるのが何だ。こちとら大学生の頃には春休みが三ヶ月半くらいあったんだぞ。それどころじゃねえ。学部四年の頃は授業が週に二コマしかなくて、早々に院に進学も決まっていたので、年中休みみたいなもんだった。それ以前と以後には無職をやって、終わりのない休暇が延々と続いた。普通の人間ならもう休みは十分と音を上げるような人生だろうが、俺は違う。俺は無限に休みがほしい。無限に休みがほしいけれど、でも無限には生きたくない。無限の休みと有限の生、このアポリアを突破する唯一の道が死だ。死こそ解決。死こそは解決。そんなことを考えながら、着替えてダウンジャケットを着て手袋をつけて駅に向かった。

 この前GUで1490円した手袋が非常に強く、この12月に自転車に乗ってもまったく寒くない。本当にありがたい。ここの冬もなかなか厳しい。

 最寄りの駅から某駅に行った。某駅は非常にでかく、平日なのに人がわんさかいた。こいつらみんな有給なのかな。世の中には有給が溢れているな。
 駅のATMコーナーで金をドサッとおろした。今度の会社の忘年会で幹事を任されているのだが、集金した金を紛失する可能性がゼロではないため、念の為に当日の予算と同額の金をおろして財布に入れた。これすらも紛失した場合は腹を切ろう。あるいはイランで鳥葬されよう。

 メロンブックスは駅から徒歩数分。便利でいい。しかし前職では職場から徒歩数分だった。あの頃はその点では最高だったな。非正規だったけど。
 買ったのはけむほこ先生の『a girl like you』。これに関してはいつか稿を改めてきちんと書きたい。ただ、今のところ言えるのは、この世にはありふれた日常を描くことを通して世界の秘密を開示できる作家というのが存在して、先生は紛れもなくその一員である、ということ。

 特急とかの指定席を買う券売機、マジで難易度が高すぎて何をどうすれば目的のものが買えるのか分からん。国鉄ゆるさねえ。

 地下鉄で某大学に向かう。
 駅のホームに突っ立ってスマホでパルを呼んでいたら、リーマン風の男女がこっちに来た。男がここに並ぼうと言う。女が答える。ここ女性専用車両のとこですよ、と。それでそそくさと移動した俺を、その女が笑ったように思うのは、単に俺が病んでるからかね。

 この場所に住むと決めたとき、この大学の図書館の利用者カードを作ろうと決めた。年間千円で本読放題映画観放題。貸出の冊数は厳しいし、テスト期間には部外者の利用は禁止されるけど、それでも本当にありがたい。この場所はとても豊かだけれど、でも、文化的にはかなり不毛だ。どこに行ってもせんだいメディアテークみたいな気合の入った文化施設が見当たらない。古本屋もない。24時間やってる本屋もない。もしもここがなかったら、休日は家にこもるしかなかっただろう。

 昔は、それでも良かったんだ。中高生とか大学生の頃は、ネットサーフィンでいくらでも時間が潰せた。引きこもってたときは一日中VIPでクソスレを立てていた。それで一日が終わっても満足だった。学部生の頃は大学のPC室に籠もって、大学のつよつよ回線でニコニコ動画を逍遥して毎日を潰していた。それでも満足だった。でも、今では、ネットをして一日を潰すことに我慢ができなくなってきた。今となっては、ネットサーフィンと言っても、観に行くサイトや動画はだいたい決まっている。毎日同じところで同じような内容が更新されているのを淡々と確認するだけ。たまに、強い閉塞感を感じ、叫び出しそうになる。耐えられない。

 年をとるということは、結局、森羅万象に飽きていくということだ。むかしあんなに眩しかったものも、何度も何度も使っていくと、すり減って輝きが失われてしまう。

 もうひとまわりふたまわり年をとってしまったら、逆にそんな輝きのないものに愛着を抱くようになるのかね。

 大学を歩く。母校より少し小さくて、母校よりも校舎が地味だ。母校には計六年通った。ここには、たぶん休日のたびに、あと何十年と通うことになるだろう。果たしてお迎えがきたときに、どちらを懐かしく感じるだろうか。そんなことを考えたりして。

 前述の通り、アルトマンの『ロング・グッドバイ』を観た。
 エリオット・グールドが壁や机や地面やドアにマッチをシュッと擦り付けると、どこだろうとパッと火がつく。まるで魔法のようだった。
 あと、ジョン・ウィリアムズの主題歌が幾度も編曲を変えて全編に渡り鳴り響いていたのだが、これはあれかね、『地下室のメロディー』を意識したんかね。

 マーロウみたいなおとなになりたかったなあ。自由で、真に独立した人間になりたかった。

 図書館を出る。駅へと向かう。午後七時を過ぎた大学は閑散としていて、出口へと向かう学生の数も片手で数えられるほどだった。空は昨晩のように澄んでいた。入口付近では、半分散った赤い並木が、道なりに点々と灯る小さなライトに照らされて、妖しい光を湛えていた。吐く息が白い。たぶん、俺の前を歩くあの若いにーちゃんの息も、俺と同じくらい白いのだろう。落ち葉を踏みしめるとカサカサ音がした。笑い声のようにも、泣き声のようにも聞こえた。